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花も恥らう君
やわらかな風が吹いていた。
庭の梅や楓の枝や葉が小さく揺れている。
軒先には昨夜の強風で落ちた葉が吹き溜まり、沓脱ぎ石のすぐ側でかさかさと乾いた音をたてていた。春らしく、透き通るように晴れた庭にはやわらかな陽差しが満ちている。
そんな中を渡ってきた風は、どこか人の気持ちを和ませてくれるような暖かさを感じた。
もう少ししたらこの暖かさも汗ばむほどのものになるだろう。
刀の手入れを終えた武が思ったのはそんなことだった。
それほど、腰掛けた軒先は暖かい。くわえていた懐紙を床に置く。
そして、確かめるように愛刀、時雨金時をじっと見た。
日の光を受けて美しく映えるそれは、家を継ぐ時に父から託された家宝である。
制するには癖があるが、恐ろしいまでによく斬れる。
見る人が見れば、小さな町道場の主には勿体無いと言うほどの大業物であった。
武が主を勤めるこの浅利道場はそれほどに小さい。弟子の数とて多くない。
当然、彼の暮らし向きも楽ではなかった。
戦乱の世が去ったこのご時勢、剣術も商売の種の一つであり生計を立てようとしたらそれなりの工夫が必要である。
武のように道場の主ならば一人でも弟子が増えた方がよい。
一人増えるとそれだけ心付けが増えるからだ。
しかし商売としての術、その面に置いて武の才覚は剣術のようには発揮されなかった。
普段は人当たりもよく大らかな彼であったが、こと剣を握るとそれが別人になる。
表情は険しくなり、妥協は一片とて無くなる。当然、稽古は厳しいものになった。
生半な気持ちの者では到底耐えうるものではない。
これはひとえに武の、剣術に関する真摯さとひたむきさからくるものだが、それが逆に彼の生活を困窮させる原因の一端になっているとは皮肉であった。
かといってこれを正すことが出来ないのもまた真実である。
他の仕事や仕官の道を考えたことが無いわけではないが、先祖代々続く道場を自らの代で潰すことなど考えられない。
ゆえにこうして、なかなかに貧しい暮らしに甘んじている日々である。
時雨金時を鞘に戻し、頬に風が当たるのを感じながら体を伸ばす。直に梅雨になるだろう。
その前に道場の雨漏りを直さなければなどと思案を巡らせていると、不意に後ろの障子が開いた。そこから現れた姿に武は顔を緩める。
「お茶いれたよ」
妻であった。
言葉通り、手にした丸盆には茶碗が一つ見える。
「悪いな」
隣に座った彼女から、受け取った茶は少し冷めていた。
しかし喉が乾いていた武には、逆にするりと落ちてゆくのが心地いい。
うまいと笑ってみせると、妻は嬉しそうにはにかんだ。
「もう一杯いれようか」
「いいのか?」
「もちろん」
「じゃあ、頼むな」
茶碗を受け取り、いそいそと台所へと下がる妻の姿を見て、武はまたひっそりと笑った。
嫁入りして三年。武と同い年であり、もう二十も越えるが子供がないせいもあって色白の小さな顔にはまだ娘らしさが残っている。
ふと見せる仕草や表情も、幼い可愛らしさを感じるほどだ。
出会ったのはもう十年も前になるだろうか。
ともすればその頃と変わらないと感じることさえある。
暫くして運ばれてきた代わりの茶は熱かった。
ゆっくりと味わうように口にするとまた風が吹く。
「昨日はひどい風だったね」
そう切り出したのは妻であった。
「そうだなぁ。桜も、これで終わりかもしんないな」
近くの寺の桜が満開になったと聞いたのが三日前のことである。
せっかくの桜も、昨夜の春嵐で散ってしまったことだろう。
「………散っちゃったかな、やっぱ」
「見たかったのか?」
小さく呟かれた言葉に武は妻を見て言った。
それにはっと気がついたように彼女は両手を振って見せた。
「あっ。いやっ別にそうじゃないよ。
なんとなく、寂しいなってだけだし」
「そうなのか?あ、でも昔はよく花見に行ってたよなぁ。
ほら、義父上殿が毎年盛大な花見会を」
「あ、あれはっ!父さんがひとりで張り切ってただけだよ。
オレが花見したいっていったわけじゃないし」
だいたい花見なんて性に合わない、と言う妻は在りし日を思い出したのかため息を吐いた。
彼女の実家は廻船問屋の中でもそれと名のしれた大店で、何代も前から商売を営んでいる。桜が咲き誇った春ともなれば盛大な花見をするほど羽振りがよい。
そこの一人娘だった彼女と、士分とはいえしがない貧乏道場の主である武本来ならば一緒になれるはずもなかった。
しかし縁あって、こうして夫婦として暮らしていることは人生で一番の幸いであると彼は思っている。それほど、武はこのいつまでも新妻のような彼女のことを愛おしく思っていた。
だからこそ、不憫を感じずにはいられないのだ。
「ツナ」
「ん、何?」
「桜。残念だよな」
「………そだね」
呟いた妻の手は、水仕事のためか赤く痛んでいた。
本来ならば、どこか大店のお内儀として家事など無縁の暮らしをしているはずだった。
事実、嫁入りするまで自分で茶をいれたことすらなかったのだ。
しかし今はどうだろう。
最初の頃は日によって粥になったり固かったりだった飯もうまくなった。
魚を鱗を取らずに焼くことも無くなった。
茶だって、こうして人並みにいれることが当たり前になった。
そうなるまで、どれほど努力をしたのかを武は知っている。
そしてこれからかけるであろう苦労もまた、わかっている。
だからこそ、できる限りのことをしたいと思うのだ。
「な、ツナ」
「なに?」
「本町の天神様、知ってるか?」
「え?あ、ああ、うん。知ってるよ。行ったことはないけど。
どしたの、いきなり」
唐突な言葉に、不思議そうな声を彼女は返す。
それに構わず、武は言葉を重ねた。
「いやさ。あそこ、もうちょっとしたら藤が咲くんだってよ」
「へー。そうなんだ」
「ん。すっげえ綺麗らしいぜ?だからさ」
「だ、だから?」
やはり今ひとつ要領を得ない愛妻に、武は明るく笑って見せた。
「絶対行こうな。二人で」
満開の桜は見ることが出来なかったが、せめて藤棚から零れる美しい薄紫の花々を見せてやりたい。贅沢なことは何もしてやれないが、それくらいはできる。
豪華な弁当も、酒も、出し物もない花見ではあるが、しかしそれが武の精一杯だ。
ゆっくりまばたきを一度する間、彼女は呆然としていたが、夫の意を理解したらしい。
それこそ桜の花でも咲いたような顔をした。
「う、うん!」
頬をほんのり赤く染めていかにも嬉しそうにこくこくと頷く姿は、やはり人妻のものとは見えない。昔、出会った頃と同じように、いやそれ以上に愛らしいものがある。
「よしっ。んじゃ、約束な」
そうして出した小指に、己のよりも随分と小さいそれが絡められた時、武はひどく満たされた気持ちになった。
見つめ合い微笑む若夫婦に、きらきらと春の陽射しが明るく降り注ぐ。
あとひと月もすると、藤の季節だ。
初書き山ツナ♀。大江戸夫婦パロ。
この2人は勝手にいちゃこいてたらいいと思います。
ちなみに一杯目のお茶が少し冷めていたのは、刀の手入れが終わるのを障子の裏でツナが待っていたからです。
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