混迷




風と姫君が去った後しばらくが過ぎても、エドワードが花園を去ることはなかった。
呆然とその場に留まっていた。一歩さえ動くことさえ出来なかった。
それほどまでに、先程の出来事は、彼女の言葉は彼にとって衝撃的だったのである。
とても信じがたい事実を頭に叩きつけられた、そんな感じであった。頭が回らない。
喉が乾いて、痛い。両足が、石像のように固まっている。
驚愕、いや混乱しているといった方が既に正しいのかもしれなかった。
そんな彼に、時を刻む城の鐘楼の荘厳な音色が降ってくる。
重く響くそれは、エドワードが職務に戻らなければならないことを告げるものでもあった。
彼はそこで我に返ると、きびすを返す。
扉を抜ける前に一度、振り返ってみたが、ただ風が花びらを散らす光景のみが広がっていた。






エドワードの時間を再び流れださせた鐘の音は、太陽が天頂から少しばかり傾きかけた時刻を示すものであった。
彼が姫君と出会ってから今までは、おそらく三十分程が流れたということになる。
つまり彼が立ち尽くしていた時間は、それ程長くは無かったということだろう。
だが、彼にはそれが永遠にも感じられた。出口の無い迷宮を迷い歩くのにも似た心地がした。
それだけ、気が動転していたということだが、それにしても意外に時は進んでいない。
だが、僅かとはいえその時間、何も物事が好転するはずはなかった。
もっと他に出来ることが、あったはずだ。
そう例えば去った彼女を追うとか、呼び止めるとか。もっと相当の行為が出来るくらいの時間があった。
それなのに、何も。何、一つ出来なかった。


エドワードは、一つ舌打ちをする。
それは自身への腑甲斐なさ、情けなさに対しての行為だ。
そして、廊下を歩いていた足をピタリとやめた。カツン、と人の通りも疎らである静かな廊下に靴音が響き渡る。
考えるのは、やはりどこまでも先程の姫君のことばかりであった。
どこまでも、どこまでも。



秘かに、しかし長年、ずっと。ずっと想っていた彼女の、想い人。
それが誰であれ、彼は力になってやるつもりだった。
例え身分不相応でも、それでも彼女の想いを成就させてやりたかった。やるつもりだった。
自身の感情など姫君の幸福のためには不必要だ、無関係だと思っていた。
だから、そのための覚悟もした。した、つもりだった。


しかし現実はどうであろう。
現実は、なんて皮肉であったろうか。





姫君が最後に、思わず口にしてしまったその言葉の続きを想像することは、いくらその手のことに疎いエドワードでさえ、容易だった。
あの時、彼女はこう伝えたかったのではないか?

“好きであった”と。



最初は、ただ衝撃しか覚えなかった。
それはありえないことであったから。ありえないことだと思っていた。
そう信じきっていたからだ。まさか、彼女の気持ちが、そうであるなどと。
次に感じたのは、単純な歓喜。
自分と、同じ想いを持っていてくれたということへのもの。しかしそれは長く続かなかった。
単純になど喜んでいられるはずもなかった。
最終的に彼の感情は、歓喜よりも遥かに大きな罪悪感によって支配されて、現在に至る。
姫君が、もし本当にそう思っていたのなら。
だったら、今までに自分は彼女に何を言った?どんな言葉を、投げ掛けた?


―――――それは。
よかれと思って、彼女のことを想ってのことだ。しかし最低のものだった。
傷つけないためのものであるはずだったのに、逆に彼女を最も傷つけるものだ。
吐き気がする。反吐が出る。頭がぐるぐるする。
彼女を、泣かせたのは、泣かせているのは、間違いなく自身ではないか。





しかし彼は同時に思うのである。姫君に自分がしてやれることは何も無いのだと。
本心を彼女に伝えた所で、何かをするだけのの力が自身にあるとはエドワードは考えてはいなかった。
もし、彼女がその告白に頷いてくれたとしても。どうしようもできないとさえ思っていた。
姫君が好きな相手なら、例え身分が相応しくなくともそれでよいとは、思う。
彼女を笑顔にすることが出来る相手なら、それでいいと。
だが、自分だけは。
エドワード自身が姫君とそんな関係になることだけは、許されないと彼は思っていた。
何故ならそれは、女王に対しての恩を仇で返すこと以外の何物でもない。
そう、臣下としての忠誠に背くことだった。
家族だと言ってくれた信頼を裏切ることだった。
しかし、彼女がこのまま、感情が何もない婚姻を結ぶのを黙って見ているわけにはいかないのもまた、本心である。
だからといって、彼女を幸せにする資格は、力は彼には、無い。
せめて笑顔にしてやることすらも、出来ない。
姫君を泣かせているのは、笑顔を奪っているのは………他ならぬ自身だ。







エドワードは、苦渋を浮かべる。自然と、握り締めていた手にさらに力を込めた。
もはや、どうしてよいのかわからない。それが、本音だった。
姫君、つまりウィンリィに自身の真意を告げることも。
このまま何もしないでいることも。そのどちらも選べなかった。

どちらも、正しい、とは思えなかった。







そこまで考えを巡らせた、その瞬間。突然、エドワードは顔を上げた。
こちらに近づいてくる足音を聞き取ったからである。
彼は反射的に、その足音の主について想像を巡らせようとする。
しかし、それは叶わなかった。また必要もなかった。
何故なら、その人物は立ち尽くしたままのエドワードを見つけるやいなや、怒気が混じった声で彼を呼んだからである。

兄さん、と。


それからは、一瞬であった。
足音の主であるアルフォンスは、兄に駆け寄ると同時に、彼の肩を掴み、そしてそのまま、廊下の奥めいた一角にエドワードを引っ張っていった。
そして、自身が置かれている状況を理解していない彼を睨み付け、こう告げた。



「いったい、何を、したの!?」

「なッ…何だよお前いきな」

「質問してるのはボクだ。いったい、姫様に何をしたの!?」



その問いに、エドワードは目を見開いた。
何故、目の前の弟はそのことを知っているのだろうか。
そもそもどうして彼はこんな所にいるのだろうかと。
そんな兄の驚きを感じ取ったのかは知らないが、アルフォンスは更に言葉を重ねる。



「泣いてたじゃないか、姫様……!」



そして彼は、エドワードの肩を掴んだままの手に力を込める。
闇金色の瞳の瞳にはっきりとした怒りを浮かべる。
そして、未だ混乱が納まらず、呆気にとられたままの兄の様子に諦めを覚えたのか、彼は淡々と事情を説明しだす。
アルフォンスが言うには、職務の合間、息抜きに廊下を歩いていたら前方から姫君が走ってくるのが見えたのだという。
何事かと驚き、理由を問おうと彼女を追い駈けたが、姫君は何でもないとただ答えるだけで、逃げるように自室に入っていった。
それきり、人払いをして誰とも口をきかないらしい。
そう、彼女の家族にも似た存在であるアルフォンスに、さえも。
その説明を聞くうちに、兄の表情が段々と強ばり、苦渋が滲み出ることに聡明たる弟は直ぐ気付く。
しかし、彼はそれでも先程の問いを取り消すことはなかった。
だから、何をしたのかと再び尋問を続ける。



「……なんで」



エドワードが口を開いたのは、質問からたっぷりと一呼吸置いた後であった。



「なんで、オレがあいつを………姫を泣かせたと?」



不意な問いに、今度は弟が軽く目を見開く。
しかし直ぐにそれを正すと、彼はエドワードから視線を外して口を開く。



「姫様を泣かせるのは、いつだって兄さんじゃないか……!」



唸るようにアルフォンスは吐き捨てる。そして何故、と彼はやはり畳み掛ける。
エドワードはもはや、この弟に隠し通すことは不可能だと悟った。
だから、ぼつぼつと先程の花園での出来事を語り始める。
そして、今さっきまでの感情も、思案さえも言葉にする。
どこかで、それを誰かに聞いてほしかったと、吐露してしまいたかったのかもしれない。



「………オレは、あいつが幸せになるならなんだってやれると、思っていた」



アルフォンスは、兄が話している間に口を挟むことはしない。
ただ、黙って耳を傾けている。



「だけど、もう………………もう、どうしたらいいかわからない。どうするのがが一番いいか、わからない」



わからないんだ、と何度もうわ言のように呟くエドワードに、アルフォンスはようやくそれまで押し黙っていた口を開く。



「……カ兄」

「えっ?」

「こっ……なんで、そんな……この……ッカ兄…!」

「………な、んだよ、お前、はっきり」



低く小さく、何事かを呟く弟の様子を訝しく思い、エドワードは顔を上げて眉を顰める。
だが、次の瞬間。痛烈な声が彼に降り注いだ。



「どうしょうも無いバカ兄だって言ったんだよッ!」



驚いて、エドワードは目を見開く。
そして自身よりかなり高い位置にある弟の顔を見た。
ぶつかった視線は、恐ろしいほどに冷ややかなそれだった。
さらに、直前の寡黙さが嘘であったかの如く、彼の唇は素早く言葉を紡ぎだした。



「ボク、前に言ったよね?姫さ……ウィンリィがなんで兄さんにお見合いのこと聞いてきたか、考えてみろって。ちゃんと考えた?考えるわけないよね。だってもしそうならそんなこと言えるわけないもの」

「ア、ル?」

「よく考えればちゃんとわかることなのに。兄さんは考えもしなかったんだね。あぁ、もしかしたら好きとかなんとか言ってたけどソレ、上辺だけ?」

「なっ…………違う!!オレはちゃんと」

「違わないよ。結局兄さんってウィンリィのことなんとも思ってないんじゃない?だって実際」

「………ッお前!」

「何、何か言いたいの?だったらはっきり言えばいいじゃ」



その瞬間。ダン、と鈍い音が、人の気配の無い静かな廊下に響いてゆく。
気付くと、エドワードは弟の胸倉を掴み、力任せに壁に叩きつけていた。
アルフォンスの顔が突然の痛みに歪む。



「………お前、いい加減にしろ………!」



そう一方的に宣告すると、エドワードはその金色の双膀でアルフォンスを睨み上げる。
しかし、彼がそれに怯えることはない。逆に、暗金の瞳で兄を睨み返してきた。
張り詰めた空気と、沈黙が自然とその場を支配する。
だが、それは長くは続かなかった。不意に絡んだままの視線を外すと、アルフォンスは口を開く。



「……じゃあ、兄さんは。兄さんは、ウィンリィのことどう思ってるんだよ」

「……どうって……そ、れは」



エドワードは、突然外された視線に当惑する。
そして、それ以上に質問の答えに窮する。
答えはたった一つしか存在しないのに。口にするのに躊躇ってしまう。
言葉にしたら、何か歯止めが利かなくなるような。後戻りが出来なくなるような心地がする。



「好き、なんでしょ?」



エドワードは、降ってきた声に反射的に顔を上げた。
そして、彼の弟が驚くほど簡単に、はっきりと言い切ったその言葉に息を飲む。
だが、同時に。例えるのならば、限界までピンと張り詰めていた糸が僅かな刺激によって、切れるような、そんな感じがした。



「………あぁ、そうだ」



じわじわと、妙な感情が広がっていく。
それは子供のころ、泣くのを必死で我慢した時のものによく似ていた。もちろん、あの時のように涙は出ない。
だが、泣きたくなる。涙は出ないのに、泣きそうだった。
エドワードは機械仕掛け人形のようにぎこちない動きで、弟の胸元を掴んでいた手を外した。
そしてそのまま、だらりと力なく垂らす。



「……好きだ」



ぼつりと、呟く。声が、震えていた。



「………好きなんだ」



力一杯、手を両方とも握り締める。
痛いくらいに、爪によって傷つく程に。
段々と血の気が消え、彼の掌は白さを増してゆく。



「好き、なんだよ……!」



苦しげに音になったそれは、問いに対する答えではもはやなかった。
ただ、エドワードの独白にすぎなかった。生涯決して、口にすることはないと思っていた言葉であった。
押さえてしまうつもりだった感情が、形になったものであった。




それでも、そうであるけれども。
それは、彼が一番羨望していた言葉でもあった。











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