|
恋情
花園に降り立つ二人の間を風は流れ、黄色の小さな花弁は宙に舞い続けている。
しかし、風は同時に少女の―――――姫君の空の如き碧眼から絶え間なく零れ続ける雫、涙をもまた宙に遊ばせていた。
ここで二人が邂逅して、沈黙が場を支配するのは、いや空間が凍り付いて動きを止めるのはもはや何度目のことであったろうか。
その定かではない幾度目かの凝結を溶かしたのは、やはりまたしても姫君であった。
流れる涙もそのままに、ただ呆然とした顔のままで彼女は告げる。
「なんで、そんなこと、言うの?」
ともすれば風音にかき消されそうな程微かに響く声は、不思議なまでにはっきりとエドワードの耳に届いた。
それが、流れ続ける風の所為であったかはわからないが、確かに彼にはそう聞こえたのだ。
そして直ぐに、その突然の問いに若干戸惑い、また疑問を抱く。
何故、とはどういった意味なのか理解できなかったのだ。
しかし姫の唇は再び、同じ内容を紡ぎだす。
「なんで、エドが、そんなこと言うの?」
自身の名を出されたことで、彼の困惑は更に強くなった。
しかし、答えを返さないわけにはいかない。
返さなければならないと本能的に感じた。
問いの意味はやはり理解することができなかったが、エドワードは躊躇いがちに口を開く。
「なんでって……だから、その………当たり前、だろ」
当たり前?と言わんばかりに姫君はエドワードを仰ぎ見る。
だが、そんな彼女を視界に収めぬまま、足元の花を敢えて見ながら彼は、忠実な臣として相応しい言葉を重ねた。
「……主君の幸福を願わない臣下なんておかしいだろ。それに」
「………そ、れに?」
エドワードはそこで下げていた視線を上げ、姫君をしかと見据える。
やはり、彼女の涙ははらはらと流れ続けていた。
だが、その潤んだ空色の瞳は、彼の言葉の続きを待つように揺れていた。
こくりと一度、唾を飲み下してエドワードは再び口を開く。
今度は先程と同じ。「家族」として相応しい言葉を再び語るために。
「お前は、オレ達兄弟にとって家族……みたいなものだろ。家族には、幸せになってもらいたいから、な」
「……………」
「だから…だからウィンリィにはホントに好きなヤツと、幸せになって欲しいって、思う」
そして、できるだけ優しく見えるように。
できるだけ、原因の知れない彼女の涙が早く乾くように。
それだけを願ってエドワードは笑った。
それは普段の彼を知る者にしてみれば、およそ信じられない程にやわらかいものであった。
真に心を許した者にしか見せない、いわば特別の、笑顔だった。
だが、彼の希望とは反して姫君の涙が乾くことは無い。
それどころか益々雫は溢れだす。
彼女の口はきゅっと一文字に引き結ばれ、頬はほんのりと赤みを帯びていた。
まるで、何かに怒りを覚えているような。
しかし、絶望に打ち拉がれているようにも見える、曖昧な表情のままでただ、泣いていた。
何故彼女が泣いているのか、それは理解していなかった。
が、静かに涙を流す彼女を、彼は気にせずにはいられなかった。
もはや奇妙としか感じない、原因が不明である涙。
しかしそれが何であろうとも泣いている姫君を。
いや、ウィンリィをただ見ているだけなど彼には出来なかった。
エドワードは耐えかねて一歩、姫君の方へと近づく。
「なんで、さっきから泣いてんだよ……」
そして涙を拭ってしまおうと彼女の頬に触れようとしたその、瞬間。
それまでまったくと言う程動かなかった人形が、まるで命を与えられたかのようにびくり、と揺れた。
そして人形――――ウィンリィは、伸びてきた手を拒むように、大げさに一歩後退りをする。
それからエドワードを、明らかに悲哀と拒絶が入り交じった瞳で睨み上げた。
「…ウィン、リィ?」
「………ないで」
「えっ?」
「……触、んないで」
「……お前、何言って」
「いいからッ!いい、から……だから。もう優、しく、なんっ…か、しないでよ……ッ!」
ぎゅっとドレスの裾を握り締め、ウィンリィは絶え絶えに叫んだ。
そしてそれまでよりも、一際大粒の涙が彼女の頬を止めどなく流れていく。
突然の怒声にエドワードはその黄金の目を見開いた。
もちろん拒絶されたことが悲しかったわけではない。怒ったわけではない。
ただ彼は、驚愕していた。また混乱してもいた。
長い付き合いだ。彼女の行動や性格はある程度、わかっていたつもりだった。
だけど、そうであるのにも関わらず。
今の彼女は――――――――わからなかった。
いつものウィンリィに見えるが、違っていた。
考えていることが、何を言いたいのかが、まったくと言っていい程に、分からない。
しかし彼は口を開いた。ほぼ、無意識の内に疑問を口にしていた。
「な、何を…お前」
「あた、しのことっ…なんとも思っ、てないなら………いないの、にっ!そんな、優しくなんか、しな、いでって言ったの……!」
今まで抑えていた感情が爆発したかのように。しかし何度も途絶えながら。
はっきりとウィンリィがそう告げたその、瞬間。
強い風が辺りを吹き抜けた。花びらが舞い、緑の若葉さえも二人の間を駆け抜ける。
あたかもそこに見えない壁が、あるかのように。
エドワードにはやはり、何故彼女がこれほどに怒り、また涙を流しているのかは知らなかった。
知るはずが、無かった。
だが、彼女の言うことを黙って肯定するわけにはいかなかった。
彼女のことを何も想っていない、なんて認めるわけには、どうしてもいかない。
それだけは、どうしても。
「……そんな。そん、なわけねぇだろ!」
「違、うッ……!アンタは、あたしのことなんかなんともッ!」
「オレはッ!一臣下としても家族としても、ちゃんとお前のこと考えて」
「全然、考えてない!わかってな、い……ッ。アンタは、あたしの、気持ちなんか、ちっとも……ッ!」
「さっきから言ってるだろ!ちゃんと考えてるから、わかってっから、だから。だからオレは……!」
そこでエドワードは、はっと我に返る。
そして、興奮していたからか、混乱しすぎていたからか、つい出てしまいそうになった音の続き。
それを飲み込んだ。
決して口にしてはいけない、禁断の言葉を。
この叶うはずのない恋情を押さえ込もうとしているのに、というそれを。
自分以上にお前を想っている者はいないのだという、傲慢さを持ったその禁忌の台詞を。
しかし、彼にそのことを悔やむ時間は無かった。
突然押し黙ったエドワードを不審に感じたのか、ウィンリィが言葉の続きを要求したからである。
「……だから、なに……?」
「だか、ら………お前が、好きな奴とうまくいくように協力、するって………」
吐き捨てるかのように、エドワードは呟いた。
それはもちろん本心などではない。
寧ろ、彼の感情とは対極に位置するものだった。
だが、それは考えつく最高の答えだった。
しかし、それはもはや最低かもしれない答えだった。
所詮、彼女のことを真に想ってというのは単なる詭弁に過ぎない。
確かに、想ってはいる。本当に、心から。その心に偽りなど全く無い。
だが、それが身分をわけまえない分不相応な感情であることも彼は痛いくらいに理解していた。
だから彼は告げる。ただ、口に出すことで敢えて自身にも言い聞かせるためだけの、最低の返答を。
ウィンリィを欺いている、という例え様もない後ろめたさから、エドワードは視線を逸らす。
とても、彼女の蒼く濡れた瞳を見ることなどできそうもなかった。
「だ、からオレ、は……」
「………やっぱり」
「えっ?」
「やっぱり、アンタは………なんにもわかって、ない」
急に、それまでの怒声めいたものからトーンが変わったウィンリィの言葉に、エドワードは当惑する。
そして、思わずゆるゆると彼女を見た。
彼女はやはり、泣いていた。声を上げることもせずに、ただ静かに。
それが一層彼女の怒りや、悲しみを伝えているかのようだった。
風が、また二人の間を吹く。
「ウ、ィンリィ……?」
「わかってないよ……あたッ、あたしのホントの気持ちなんッ、て……」
そこでウィンリィは一歩前へと踏み出し、すっかり赤く腫れた瞳でエドワードを見据える。キッと歯を食い縛って、そして。
「あたしは、あた、しはッ……!アンタに、エドにだけ、にはそん、なの……誰かと結婚しろとか、うまくいくように協力するとか、言われたくッ、なかっ……た!」
「お、お前いったい何を………」
「だって………だってあたしはずっと、ずっとあんたのことが………ッ!」
そこまで叫んだ後、ウィンリィは息を飲んだ。
そして動揺と困惑が手にとるようにわかる程、大きく目を開く。
言うつもりでは無いことを、無かったことをつい言葉にしてしまった、明らかにそんな様子だった。
そしてまるでエドワードを恐れるかのように、ゆらりと危なげに後退りをした。
しかし、視線を彼から外すことは無かった。
ただ外す余裕が無かっただけかも、しれない。
だが、動揺し、困惑しているのはエドワードも同じであった。
そして、恐怖心からではないが純粋な衝撃によって視線を彼女から外せなくなっていたのも、また同じである。
再び、花園という小さな空間の時間が止まる。
どちらも、動けなく、そして動かなかった。
その時間がいったいどれほどの長さであったかはわからない。
ただ時が再び流れだすきっかけになったのは、未だ頭がうまく回ってはいないエドワードの言葉だった。
「……い、ま。お前、なんて………」
それでウィンリィもはっとする。
だが、彼の問いに答えることは無かった。
一度だけ、おずおずと僅かに高い位置にあるエドワードの顔を見ると、弾かれたように彼から更に距離を置く。
そして、長い金髪を風にふわりとなびかせ、涙を宙に遊ばせながらエドワードの横を通り過ぎていった。
口を引き結んで。流れ続ける涙にも、上気した頬にもまるで構うことなく。
それきり、彼女は一度も振り返ることなく花園を立ち去った。
何があろうと、風は花園を駈けていく。
黄色の花びらをその身に纏おうと、若緑の葉を宙に泳がせようとも。
ただ、静かに、流れていた。
BACK NEXT
|