古い古い扉の向こう側。
そこはお花が沢山咲いている素敵な場所。
そう、ここは秘密の場所。
三人だけの、秘密。誰にも決して教えてはいけないよ。
そう約束をしたのはいつのことだったのだろう。
確かまだ、何もわかっていなかった頃の出来事だ。
まだ、彼女と自分には何も隔たりなどないと信じ切っていたあの幼き日々の、たわいもない日常の、断片。




花園






花々が作り出す黄色の絨毯の上に降り立つ姫君は、ただそこに居続けた。
来訪者を認識したその瞬間、微かに驚きの色を浮かべたがそれも一瞬のことで、それからは、微動だにしなかった。
ただその空色の瞳に、来訪者たる少年を映し出していた。
いつもなら彼を見るたびに、視線が合うたびに、満面の笑顔を讃える姫君は今、無表情とも無感情ともつかない顔をしている。
それは来訪者にとって――――エドワードにとってはいっそ恐怖であった。
彼女という存在に対する揺らぐはずのない認識が、崩れていくような気が、した。


例えば心が暖かくなる笑顔、泣きだす寸前の我慢する顔、頬を膨らませるふくれっ面、怒った時に見せる上気した頬。
そんな風にくるくるとよく変わる表情を持っているのが、エドワードにとっての彼女であった。
ただ一つの絶対的たる存在であった。そうであってそれだけは変わらないはずだった。
だが、今彼の前に立つ彼女の表情はどうだろう。
まるで人形のように、作り出された無機質のそれだ。
エドワードの記憶にある姫君の、どんな姿とも一致しない。
ガンガンと彼の頭の中で警鐘が鳴り響く。全身が、感覚が、彼の目の前に存在する彼女を模した人形に違和感を、否定を訴え続ける。
………違う。お前は、違うと。お前は、そんな顔をしないと。お前は本当に誰なんだ、とさえ感じる。



エドワードは、動かない。いや、動けない。
体中を恐怖と困惑と違和感が支配している。
だが同時に、未だ人形めいた表情を浮かべる少女が見せる、その無機質な様子にエドワードはどこかで惹かれていた。
視線が、外せなかった。
恐れながらも、圧倒されながらも、先程の芸術的な絵画のような美しさに見惚れるのとは違う意味で、 彼はまた、確実に魅了されていたのだ。
エドワードは自らの金色の瞳に彼女を映し続ける。それが彼女がそれまで見せたことのない、 未知の姿に対する恐怖心からの行為なのか、それとも見惚れていたからこその行為なのか、彼にはまったくわからなかった。
ただ一つ、事実としてこの場に横たわるのは、エドワードも姫君も僅かにも動かず、 口も開く事無く、互いをただずっと見ていたということであった。


小さな花園に存在する二人を仲介していた空間が、固まって動かなかった時間は一瞬であったか。 はたまたある程度まとまった時間であったのかはわからない。
しかし、永遠に続くとさえ思われたこの奇妙な均衡を破ったのは、意外にも姫君であった。
小さく笑顔を作ると、どうしたのとエドワードに問う。そして、今は仕事の時間ではなかったかと続ける。
突然破られた沈黙にエドワードは妙な違和感を覚えた。
だが同時に見覚えがある、いつもの人間めいた彼女の笑顔にどこかで安心をする。
そこであぁとためらいがちに短く答え、彼女が立つ花園の中心へと向かった。
なんにせよ、姫君と話をする必要があると彼は感じていたからだ。



「エドが、ここに来るなんて思わなかった」



本格的な会話の始まりを提供したのは、先程と同じく姫君であった。
エドワードが隣に立って幾分もしない内に、姫君は自身のそれよりも僅かに高い位置にある彼の顔を見て微かに驚嘆じみた声を上げる。



「………散歩してたら偶然、見つけた」

「そう、なんだ」

「……お前は、なんでこんな所にいるんだよ」



平時よりも少し低く押さえた声で、エドワードは質問をする。
だが姫君は再び微笑を浮かべ、そしてただ一言――――内緒、と答えるだけで問いに対する明確な回答をしなかった。
それきり、またぼんやりと空のごとき瞳を何処か遠くへと向ける。
そんな彼女の様子にエドワードは先程感じた妙な違和感、つまりは急に沈黙が破られたその瞬間に感じたそれが膨れてくのを認識した。
もちろん、彼は自身のとるに足らない質問の答えを求めていたわけではない。
そんなものを望んだわけではなかった。
だからこそ彼は姫君の曖昧な答えに何も言葉を重ねなかった。
エドワードが真に彼女に問いたいのは。
いや、言いたかったことは違うことであったからだ。
またそれに関する事象こそが姫君が発する違和感の根本であると彼にはもうとっくに気付いても、いた。
頬を撫でる早春の風を感じつつエドワードはぎゅっと、手を強く握り締める。
そして、自らの視線をゆっくりと隣に立つ少女へと向ける。
そうだ、彼にはやらなければならぬことが、義務がある。

そう、伝えなければ。彼女の、祖母の言葉を。
問わなければ。心を寄せる相手がいるのかどうかを。



「………あの、さ」



今度は、エドワードが会話のきっかけを姫君に提供する番であった。
不意の呼び掛けに、彼方を見つめていた少女はゆるゆると隣を、見る。



「あの、さ。見合い、やるって聞いた」

「……そっか」

「ああ。あのな、その、その……そのことについて、なん、だけど」

「………うん、なあに?」

「あの、な。ばっちゃんがさ、言ってた」



突然告げられた祖母の存在に、姫君は微かに驚きを顔を浮かべる。
しかしエドワードの言葉の続きを、待つように彼を見やった。



「ばっちゃんが、何て?」

「お前には、さ。本当に幸せになって欲しいって言ってた」

「それ……どういう、こと?」

「………見合いなんかじゃなくて、本当に惚れた奴と一緒になって欲しいって」

「……え、そん、な。それって…」



姫君は、今度ははっきりと困惑と驚愕が入り交じった表情を浮かべた。
大きく見開いたままの瞳は揺れ、何をそんな、と声にはならぬ声が聞こえてくるようだ。
エドワードは今日初めて目にする彼女の動揺に拍車をかけるように、いや拍車をかけるためにさらに言葉を重ねようと口を開く。



「…だから、ウィンリィ」



名を突然に呼ばれた少女は、びくりと体を震わせて息を飲む。
そして、いつの間にか逸らしていた視線を戻し、恐る恐るエドワードを仰ぎ見た。
それを確認してから、少年は遂に核心を宣告する。



「……見合いなんか、やめちまえよ」
(そうだ、やめてしまえそんなこと)

「ばっちゃんは、無理にやんなくてもいいって言ってくれてんだぞ?」
(オレはやめろと言える立場には居ないけれど、だけど)

「相手のことなら、お前が気にしなくても何とかなるだろうし」
(貴族の生まれというだけで、お前が惚れてもいない男にお前を渡すことなど許せない)

「………それに」
(それ、に)



エドワードは軽く息を吐く。
そしてしかと姫君の青色の視線と、自身の金の視線を交差させる。
姫君の、動揺と困惑を表すように揺れる空色の瞳。
そこにはエドワードの姿が、はっきりと映り込んで、いた。
それは彼の、太陽から抜き出した如き金の瞳にとってもまた、同じことであった。
少年の瞳に映り込む姫君は、それまで声を発することが無かった小さな唇を、震わせる。



「……それ、に?」



いよいよだ。エドワードは握り締めたままの拳に更に力を込める。



「それに、お前。本当はさ………いるんだろ?好きな、男が」

「…………え……」

「だからさ。いるんだろ、好きな奴が」





(オレではない、誰かが、きっと)





どこか困ったように笑って、ばっちゃんが言っていたと続けたエドワードに、姫君が答えを返すことはなかった。 ただただ茫然と、彼を見ている。
これでは、問いの答えは、彼女に想い人がいるかどうかというエドワードの最たる疑問の答えは、もはや出たに等しい。
やはり、彼女には居るのだ。


心を寄せる、誰か特定の相手が。






吐き気がする。眩暈すら、覚える。
分かり切っていた答えであるにも関わらず、いざ真実を突き付けられると心が、ギリリと軋むように痛み出すのを彼は感じた。
だが、それをこの目の前に立つ少女に見せるわけには、いかない。
臣下として、幼馴染みとして、家族として。
そして何よりも、何にも代え難い大事な存在である彼女にしてやることは、ただ一つだ。
大丈夫、彼女のためならなんだってできるはずだ。
大丈夫、そう大丈夫言えるはずだ。
視線を、彼女から外す。
見ていたら、言えそうもない。エドワードはまた息を吐く。



「…あのな、ウィンリィ」



名を呼ばれても、姫君は未だエドワードの顔を見上げたままであった。
返事も、何もないままにただ瞳を困惑に揺らすだけだ。
それをいいことに彼は選ぶように言葉を発する。やはり視線は外したままで。



「お前の、その………好きな奴が誰かなんてオレは知らないけど」



早春だというのに、日差しが強い所為か。
或いはこの場所に咲き誇る黄色い花の強い香のためか。
妙に頭がガンガンと痛むのをエドワードは感じた。
だが、彼の唇がその動きを止めることはない。
淀みながらも、言葉を発し続ける。



「けど、さ。オレは、お前には、そいつと……その、好きな奴と一緒になって欲しい、と思う」
(………本当の願いは違うけど、それでも)



その時、風が一陣吹き抜けた。
二人の長く伸びた輝きの異なる長い髪が揺られて金の軌跡を描き出す。
花弁は宙に舞い、花の香はむせかえるほど強く感じる。
だがそれを気に掛けることは少年も、また少女もしなかった。
ただ滑稽な程声が、響いてゆく。エドワードは笑顔を浮かべる。
子供をあやす時のように眉を下げたそれは、見方によっては泣くのを堪えるようにも、見えた。

そして彼は、再び口を開く。



「お前が、そいつとうまくいくようにさ、オレも協力するから、だから」
(お前が幸せになるのなら何だってやるから)

「だから………やめちまえよ、見合いなんて」





(せめてあと少しの猶予を)













これは彼女に対してエドワードが出来る最大限の提案であり、そして宣告でもあった。
だが同時にエドワード自身に対する宣告でもあり、そして戒めでもあった。
彼女が今見合いをしてもしなくても、いつか結局は他人の物になるのは代わらない。
それまでに、彼女に対する恐れ多い感情を押さえなければならないと宣告し、戒めとなるもの。


エドワードは、姫君の答えを彼女をやはり見ることもなく、じっと待った。
きっと自分の期待に答えて、いや、想像通りの返事をしてくれるだろうと信じていた。
だがいくら待っても何も、返答はない。
そのことに不審を覚えつつも彼は待った。しかし、やはり彼女は何も伝えてこない。


もしかしたらデリカシーがないことを言ったことに怒っているのか、或いは不貞腐れているのかと考えたエドワードは、怒鳴られるのを覚悟して姫君の方を見る。
だが、彼の推測はまったくもって外れていた。
そう、彼女は、怒ってはいなかった。そして、不貞腐れてもいなかった。
もちろん、笑顔を浮かべているわけでもない。
その表情は、エドワードにとって決して好ましい物とは言えなかった。
寧ろ最も避けなければならない物であった。



はらはらと、姫君の空色の瞳から雫が零れ出ている。
それは微かに桜色を讃える頬に流れ落ちる。
止めど無く静かに、だが確かに流れ続ける。
そう。姫君は、いやウィンリィは声も出さずに静かに、ただ泣いていたのである。

早春の軽やかな風が、一層と強く小さな花園を吹き抜ける。
だが、風が彼女の涙を乾かし、どこかに追いやることはついぞなかった。










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