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平穏
透けるような太陽の光が、やわらかに降り注いでいる。
蒼穹の空に浮かぶ綿菓子の如き雲はふんわりと、いかにもやわらかそうだった。
咲き誇る花々は鮮やかに、自らの生命を謳歌している。
古城リゼンブール。その中で、普段は人も入ることも疎らな中庭。
そこで一人寝転がって時間を潰していたエドワードは、すっかり春めいた気候に思わず欠伸を洩らした。
平和だなー、と思う。
そして、もう一度欠伸を一つ。
あの姫君の見合いの日から、今日でちょうど一週間。
その間に彼を取り巻く環境はある種恐ろしい程変わっていた。
姫君を連れ去るなんて、投獄されるのが当たり前、悪くて極刑だ。どんなによくても騎士団長の任を解かれる程の罪である。
それでも、せめて彼女を守らなければと彼は覚悟を決めていたのだ。
しかし、いざウィンリィを伴ってピナコの元に戻った時。
かの女王が彼を叱責することはなかった。
側に控えていたアルフォンスと共に、ただ笑って、二人に場を混乱させたとして三日の謹慎を申し付けるだけだった。
そのあまりにあっさりとした処分に拍子抜けをしたのはエドワードとウィンリィだ。
しかしどうにか我に返り、女王に何故かを彼らは尋ねた。
するとピナコは煙管を一度吹かした後に、こう言ったのである。
“そんなもん、前に言ったじゃないか”
それが意味することがわからずに思わず眉間に皺を寄せたのはエドワード。
しかしそんな彼や、怪訝な表情を浮かべている孫娘に、この老獪たる女王は更に混乱をもたらす言葉を投げ付けたのだった。
“それでお前達、婚約の発表はいつにするんだい?”
あまりに突然で唐突なそれに思わず絶句した二人を尻目に。
あんだけ騒ぎを起こしたんだ、責任とってもらわないとねぇとのんびり続け、かかかっとリゼンブールの女豹は高らかに笑った。
そして、それから。
事態は彼女を中心に驚くほど加速を付けて動いていったのである。
まず女王はウィンリィの見合い相手である貴族に相当の謝罪と謝礼をした後。
若き騎士団長を不敬極まりないと責める重臣を容易く説得、いや押し黙らせた。
結局、二人の謹慎が解ける頃にはすっかりとお膳立てを終えていたのである。
というよりはエドワードが気付いた時には既に、公式発表がされていないのにも関わらず国中に彼らの婚約が知れ渡っていた。
彼は澄み切った空を見上げながら、渋い顔をする。
日の光が鋭く、緩く彼の金色の瞳に刺さり、痛い程だ。
今、自身の置かれている立場はエドワードにとってあり得ない程最高のものだった。
またウィンリィにとってもそれは同じだと思う。
それに文句を言う権利も、またその気もない。
嗚呼、だけど。
「……なんであんなに準備がいいんだよ」
思わず呟いた言葉は、さわさわと吹く薫風にあっと言う間にかき消される。
ピナコの行動は、明らかに用意周到なものであった。
まるでこうなることが予めわかっていたような、いや絶対にかの女王にはわかっていたとしか考えられない。
だとしたら、自分は、自分達は結局ピナコの掌の上で踊っていただけではないか。
ぎっ、と今度は眩しさからではなくエドワードは顔をしかめた。
贅沢で、我儘な感情だとはわかってはいるが…………はっきりいって面白くはない。
あれほど悩んだ時間と、いざとなったら国を捨てて彼女と逃げようとまでした覚悟も、いったいなんだったのだろう。
いや、そもそも。エドワードは独りごちる。
どうして、内密な筈の婚約が城内にも、国中にも広がっているのだろうか。
これまで、幾度部下達に冷やかされたか知れない。挙げ句、職務で赴いた城下でも人々に散々からかわれ、祝福を投げ掛けられた。
しかも手の悪いことに、彼らの話すエドワードの襲来は、ご丁寧にどこぞの恋愛小説のような装飾がゴテゴテと取り付けられたなんとも恥ずかしいものであった。
いつ、どこで、誰が、愛してるなんて大声で叫んだというのだろうか。
そんな記憶は生憎、いや絶対に彼には無い。まったくもって、無い。
彼が、休憩時間をこうして人が訪れることの無い花園で過ごしている理由は、実はそこにあった。
自室では、悪戯心と興味を持て余した部下の質問責めにあう。
かといって城内をうろついては、噂好きの侍女の好奇心に満ちた視線が彼を襲う。
そのどちらも憂欝だった。
どこか人の来ない所を、そうやって散々と考えた末に思いついた休憩地がここであった。
だがそうは言ったものの。ここ数日の周囲の反応や言葉。
それは実際、少しは嬉しいというか恥ずかしいというか。
おそらく後者の気持ちが大きかったことを思い出して、エドワードはまた顔をほんのりと染めた。
同時に、再びくわーっと欠伸が洩れる。
そういえば、最近はあまりよく寝ていない。
そんな体に、春の暖かさはいっそ毒だ。目蓋が、重い。
これまでの怒濤の出来事と、これから待ち受ける怒濤であろう出来事も。
微睡んでゆく頭では取り敢えずどうでもよくなって、彼は意識を手放そうと目を閉じた。
その時。彼は僅かに気配を覚えた。
何者かがこの花園へと踏み入れたのをなんとなくだが感じ取ったのである。
ぼうっとする頭でどうにか視線を緩慢に気配のする方へやったエドワードは、その正体を確認した途端に思わず飛び起きた。
眠気は、奇妙にもどこかに行ってしまった。
何故ならば訪問者は、姫君であった。それは謹慎が明けてから初めて近くで見る彼女の姿だった。
エドワードは驚きで口を開けたまま固まる。そしてそのまま、二、三度瞬きをした。
何故彼女がこんな所に、彼の驚愕は主としてそこである。しかし答えは出ない。
だが驚いているのはウィンリィも同じことで、彼女もエドワードとまったく同じ反応をとっていた。
おそらく考えていることも同じであろう。
しばし呆然とし合った二人であったが、どうにか同時に我に返った。
その後ウィンリィは意を決したように、座ったままの少年の側まで足を進める。
「とっ、隣、いい?」
「へっ?……あっ、うん。で、でもお前。服、汚れんぞ?」
必死に平静を装いつつ、エドワードは彼女の装いをちらりと見て尋ねた。
何故かいつもは気にもならないことが妙に気になる。
今日のドレスは、あの見合いの時のものと比べれば簡素な普段着といったものであったが、それでも汚れないに越したことはない。
しかしウィンリィは、だいじょぶと一言、妙に力を込めて呟いた後、すとんと彼の直ぐ隣に腰を下ろした。
途端、咲き誇る白や桃色の花から香るのとは少し違った趣の、かといって決して不快ではない甘い匂いがエドワードの鼻を掠める。
それをなるべく意識しないように、彼は敢えて視線を宙に泳がせた。
しかしウィンリィもウィンリィで、落ち着かない様子で青色の瞳をくるくると彷徨わせていた。
なんともしがたい微妙な空気が、沈黙がしばしの間二人を包む。
どちらも、何か思うところはあるのだがそれを口にすることがうまくできない。
まがりなりに“婚約者”という関係になってから、初めて二人きりになった緊張感と、恥ずかしさからくる動揺を持て余していたかのようだった。
そんなあやふやな緊張を破ったのは、ウィンリィであった。
「……あの、さ」
視線は膝に乗せた自らの手をとらえたまま、彼女は呟く。
「なんか、嘘………みたいだよね」
あたし達が婚約、なんて。と最後の方はやっと聞き取れる程の声で彼女は続けた。
その頬は薄紅色に染まっている。
「………あ、あぁ確かに。嘘、みたいだよな」
彼女の表情に、逆に自身が照れながらエドワードは答える。
するとウィンリィはぽつり、ホント嘘みたい、と独り言のように呟いた。
そしてそれきり、またしても沈黙が二人の間に横たわる。
普段は、不必要に多いはずの会話が、まったく続かなかった。それは不快ではないが、なんだか落ち着かない。
つい伺うように、エドワードは隣に座る“婚約者”を盗み見た。
しかしおそらく未だ頬を赤く染めて、俯いているだろうと推測した彼女の表情。
それはどこか、遠くを見ているような。夢を見ているような儚げなものだ。
それを訝しみ、また不安を覚えたエドワードが、彼女の名を呼ぼうとした瞬間。
「あのね」
ウィンリィの、少女らしい高い声がそれを拒んだ。
「あのね、あたし……その、エドにまだ、言ってないことがあるの」
彼女は、先程まであやふやな表情を浮かべていた顔を、視線をエドワードに向けた。
自然に、少しだけ彼を見上げることになる格好になる。
それから、決心をしたかのように口を開いた。
「あの、あ、あの時。来てくれて、ありがと。すごく、嬉しかった」
そう、ぽつりぽつりと区切るようにやっと告げると、ウィンリィは、精一杯の笑顔を浮かべた。
それはいつもの、明るく朗らかな彼女のそれとはまったく違うものであった。
しかし、先程の言葉とともに、エドワードの時間を止めるには十分すぎる効果を持っていた。
彼は、嬉しかったという彼女の言葉を反芻して、茫然とする。そしてその見慣れない笑みに思わず見入ってしまう。
「……エド?」
あまりの反応の無さを不思議に思い、ウィンリィは呼び掛けた。
そして手を彼の顔の前でひらひらと振ってみる。
それでやっとエドワードははっと我に返った。
「どうしたの?」
「え、いや、その………そ、そうだったのか?」
「う、うん。そうだよ」
「そ、そっか」
赤くなった顔を彼女に見られないように伏せて、エドワードは呟いた。
それから、胸中で大げさに息を吐く。
ただ、驚きだった。あんな表情が、できたのかと。そして、同時にじわじわと広がる歓喜に彼は翻弄される。
心臓が妙にバクバクとうるさく早鐘を打っていた。
しかしそんなエドワードの心情など知らないウィンリィは、緩やかに口を開く。
「……うん。だから、ありがと」
そして、彼女はいつものように、にっこりと笑う。
その暖かな、明るい笑顔はエドワードにとっては実に久しぶりに目にするものであった。
先程の笑顔に、恥ずかしさと驚愕、そして歓喜を覚えて揺れていた彼の心は、次第に落ちついてゆく。
そして単純な安心が、暖かいものが満ちていった。
―――あぁ、そうか。
エドワードは唐突に、悟る。
結局、自分はこの顔が見たかっただけなのだ、と。
ただ、笑っていて欲しいと、それだけ。
それがあまりに単純すぎて、彼はなんだか可笑しくなった。
思わず苦笑混じりの、笑みが零れる。
エドワードは、薄蒼の空を仰いだ。
そこは相変わらず澄み切っていて、真白の雲はゆっくりと流れてゆく。
それは、いつだって変わらない。例え自分達の関係が変わったとしても、自分の感情が不変であるのと同じように。
これからも、ずっと。ずっと。
(そうだ。いつだって、オレは)
彼はゆっくりと目を閉じた。そしてまた同じ様に、同じようにゆっくりその金色の瞳を開く。
そこに映るのは、これまでも、そしてこれからもきっと同じ存在だ。
黙ったままのエドワードを不思議そうにウィンリィは見つめている。
彼は向き直ると、その頬に右腕を伸ばし、手で触れた。
壊れないように、そっと。しかし、離れないように、しっかりと。
それから、いきなりのことに驚いて、困惑と動揺から頬を染める彼女に自らの顔を近付けてゆく。
そして―――――――――………
山々を。森や林を。春の爽やかな緑に染め上げながら、暖かい春風は吹き下りる。
街や城にもその穏やかな空気を運び、残っていた冬の欠片をすっかりと追いやっていた。
もちろん、風はゆっくりと、この小さな花園を駆け抜ける。
そして、影が重なった二人の、輝きの異なる金色の髪を気紛れに揺らしていた。
花園に咲く花は宙にその花弁を泳がせる。
その美しさはいっそ幻想的で、また夢のような光景だ。
ここは大陸の東、リゼンブール。
小さな王国に、ようやく本格的な春が訪れようとしていた。
END
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