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その日、ウィンリィの目はぱちりと覚めた。
夢現つにぼんやりと滲む瞳で、体も起さずに寝台のすぐ隣にある窓を見る。
まだ薄闇と靄、静寂が王城を包んでいた。朝日の姿は無い。
どうしてこんなに早く目覚めてしまったのかと彼女は城のように霞み掛かった頭で考えてみる。
だが答えはでなかった。ただ、別に今日という日を待ち焦がれていたわけではないのにとは思う。
むしろ逆のはずのに、と。しかし現実、彼女の頭は霧が晴れていくかのように徐々に覚醒してゆく。
どうしてか、じくりと鈍い痛みが刺す心を引きずりながら、ウィンリィは起き上がった。
今日は、彼女の見合いの日であった。
襲来
朝日が昇ってからしばらくした後、ウィンリィは自室に運ばれてきた朝食を摂る。
そしてそれから傍に控える侍女の手を借りて身仕度をするのが、いつもの彼女の朝である。
今日もそれに漏れることは無かった。だが、昨日、また一昨日といった日常から比べると今日は明らかにその実違っている。
例えば、身を包むドレス。
いつもはシンプルなそれは、今日は、胸の部分が大きく開き、クリーム色のレースがたっぷりと編み込まれた実に華やかなものになっていた。
そして、晒された胸元に輝くのは大きな宝石の付いた首飾りだ。それらは、姫君とはいえ普段のウィンリィにはあまり縁が無いものだった。
しかし、侍女達はそんなことはお構いなしに次々と彼女の身を飾ってゆく。
姿見に映る、自身がだんだんと変わってゆく様をウィンリィはただ茫然と見ていた。
だが彼女がそうしている間も、もちろん侍女達の手は止まることはない。
長く垂らした姫君の薄金色の髪を丹念に櫛で梳いて、その上にそっと、輝くティアラを乗せる。
そこまでやって初めてうら若き乙女達は満足気に嘆息した。そしてその皆が皆、一様によくお似合いです、と嬉しそうな声を自らの主人にかける。
その賞嘆に微笑を浮かべ、ありがとうとウィンリィは声を返す。しかし、彼女達に見えないように小さく息を洩らした。
姿見に映り込む自身の姿は確かに、いかにも「お姫様」だった。それが、本当の自分ではないようでどことなく嫌だったからである。
そして、あと一つ。そんなおとぎ話の「お姫様」は皆、素敵な王子様に愛されて、幸せになるのということを思い出したからだ。
昔はそれに憧れを抱いたものだった。
いつか“姫”である自分には王子様が現われるのだ、と。
現実を知ったのはいつだったろうか。
そう、現実は決してそうではない。現実の「お姫様」は、そんなことありえないのだ。
だって実際「お姫様」である自分が好きになったのはお伽話のように王子様なんかじゃ、なかったから。
その好きな人が物語のように「お姫様」である自分を想ってくれることは、なかったから。
ウィンリィは今はただ、物語の「お姫様」に幼い頃とは違う意味で無償に憧れた。
王子様と結ばれたからではなく、好きな人に好きになってもらえたから。
それが、たまらなく羨ましくて、いっそ嫉ましいとさえ思う。
じくり、先程と同じ鈍い痛みを感じて、彼女は静かに目を瞑る。
そして最後に彼と言葉を交わした日のことを思い出していた。
あの、花園での邂逅から今日で二週間にもなろうか。
その間、心優しい兄弟の弟の方は、折を見ては何度も尋ねてきてくれた。だけど兄の方は。
一度たりとも訪れてはくれなかった。普段から彼女の部屋に来ることは殆ど無い彼だからそれはまだ当たり前といったら当たり前だ。
それにあんなことがあった後、会いたくない気持ちもよくわかる。
だけど、それでもやはり。
彼女は彼の来訪を待っていたのだ。ほんの少しだけだか、どこかで期待していたのだ。
そこまで考えて。
いつのまにか哀しげに顔を伏せていたことにウィンリィは気が付く。
彼女は顔を上げる。これでは「お姫様」失格ではないかと自嘲、する。
それから気を抜くと涙が出てきそうな自身を叱責するため、ぴしりと一度頬を叩く。
そしてにこりと無理矢理に笑顔を作ってみた。
姿見に映る彼女の微笑は、痛々しいほど完璧なまでに王族のそれ、だった。
(………大丈夫。笑える)
その時、部屋に女王付きの侍女が入って来た。
そして彼女の見合い相手が城に参上したことを告げる。
頭の中にちらつく琥珀色の影を振り払うように、ウィンリィは立ち上がる。
いよいよ、だ。これからの彼女は、「ウィンリィ」なのではなく「リゼンブールの姫」として振る舞わねばならない。
鏡面に映り込む自身をちらりと一別したのち、彼女は侍女達の手を借りつつ自室を後にした。
しかし、回廊を進む姫君の頭を染め上げるのは、どこまでも金色だった。
狂おしいほどに鮮烈に、脳裏に焼き付いたあの金色が、離れることはなかった。
リゼンブール城の中で一番荘厳で豪奢な、重く古い扉の奥に、謁見の間はあった。
ウィンリィが数人の侍女と共にそこに辿り着いた時、既に主だった臣下は皆顔を揃えていた。
後ろの方には不安そうなアルフォンスの姿も見える。しかし、若き騎士団長の姿はない。
王座に座るのは、ウィンリィの実の祖母であるこの国の女王。リゼンブールの女豹と称されるピナコである。
深紅の絨毯の上を進んだ姫君が、自身の椅子へと腰掛けた時、女王は孫娘にだけ聞こえるように小声で告げた。
「本当にいいのかい?………まだ、間に合うよ」
少しだけ驚いた表情でピナコを見たウィンリィではあるが、すぐにそれを正して答える。
「……うん。だいじょぶ、だから」
それから人の心を鷲掴みにするような精一杯の笑顔を作ってみせた彼女を、女王は複雑そうな表情で一度見たが後は何も言わなかった。ただそうかいと答えて一つため息をつく。
そうしている間に、見合い相手の青年が謁見の間へと入ってくる。
もう見合いの始まる時刻だった。
相手である青年は、育ちの良さが滲み出るような礼装であった。
淀み無く時節の口上を述べる声にも、ぴんと背を伸ばすその姿にも、自身に対する絶対的な自信を感じる。顔立ちもよく整ったそれだった。家柄も、この国で最も高い貴族の出である。
物語の「王子様」とはきっとこんな青年のことを言うのだろうとウィンリィは一人、考える。
しかし、自身の結婚相手であるという実感はまったくもって感じない。それに、彼に対して特別の感情が起きるわけもなかった。
朗々と響く青年の声を聞きながら、無意識に何度もくるり、と参列する人々に彼女は視線を巡らす。
そしてその度にあの一際目を引く黄金が無いことに人知れず落胆を覚え、その後で彼女は我に返って、絶望するのである。
未だ、彼を求めようとする自分自身に。期待しようとも、無駄だとわかっているのに諦められない自分自身に。
駄目だと、思う。
こんな気持ちのままでは見合い相手である、目の前の青年にも失礼だとも思う。
だが実際に頭に浮かぶのは。思いを馳せてしまうのは。彼女の意志を無視したかのように、どこまでもあの幼馴染みのことだけであった。
例えばここ最近、朝議の時に偶然目が合うその度に、直ぐに逸らされていたこと。
そしてその時の騎士団長は、はっきりと眉間に皺をよせて渋い顔を浮かべること。
あんなものを見たら、彼の自身に対する感情がどうなのかは一目瞭然だと彼女は思った。
花が風に舞う中で交わした言葉でもそれは十分にわかってしまっていたが。
あの表情を見るたびに、罪悪感が胸を掠めた。あんなことを言ってしまって、挙げ句に感情にまかせて詰ってしまって。困らせてしまった。
ごめんなさいと謝罪できたら、忘れてくれと懇願できたらどれほどよいだろうか。
そもそも見合いの相談をしたのだって、ただ彼に止めてほしかっただけなんていう自身の我儘だ。
しかしその我儘の結果はどうか。
ただ、負う必要の無い重荷を彼に背負わせただけではないか。
優しいあの幼馴染みを困惑させただけではないか。
ウィンリィはきゅっとドレスの裾を掴む。美しく繊細なレースが、くしゃりと乱れた。皺だらけになるその姿はまるで彼女の心そのもののようであった。
例え様もない心からの後悔の念が身を包んでいく。
だが、同時に絶望と痛みが彼女を襲うのだ。
あの時。彼は、家族として、臣下としてしか見合いに反対してくれなかった。
あまつさえ、想い人とうまくいくように応援するとさえ言ってのけた。残酷なまでに、優しい笑顔を浮かべて。
それは結局、彼にとって自分は家族であり、幼馴染みであり、臣下でしかないことを示していた。
それ以上の感情を、彼は抱いてなどいないことを。
そうだ。時折見せてくれるぶっきらぼうな優しさに。自分に向けられる鮮やかな笑顔に。
ただ自分は舞い上がっていただけなのだ。
もしかしたら、なんて勝手に勘違いしただけなのだ。
どうしてそんなことを考えたのだろう。期待、なんてしてしまったのだろう。
わかっていたはずだ、彼の気持ちも。
いつかこんな日がくることも。
とっくに覚悟していたはずなのに。
それなのに。
何故、こんなに苦しいのか。
こんなに、痛いのだろう。
こんな、こんなに…………
視界が、歪む。頭はぐるぐるする。気持ちが悪い。寒い。
「………ウィンリィ?」
ピナコに呼び掛けられて、ウィンリィははっと我に返る。
そして、直ぐに不意に自らの頬が冷たく濡れていることを悟った。
何故、今更。あれだけ泣いたのに。
よりにもよってこんな時に、この場所で。
こんなこと絶対に許されないのにと彼女は絶望する。
だが、心の方は悲鳴を上げていた。
苦しい。辛い。泣きたい。
そう、強く強く訴え続けていた。
何かが彼女の中で弾ける。感情に、理性は流されてゆく。
散々と我慢してきた関が破られる。
もはや限界、だった。無理、だった。
ついにウィンリィは手で顔を覆う。そして声を押し殺して静かに泣き始めた。
いきなり涙を見せた今日の日の主役に、謁見の間は自然と騒めき立つ。
隣に座る女王はそんな孫を見てただ哀しげに眉を潜めた。
アルフォンスは、苦しげに顔を歪める。
見合い相手である青年も多分に困惑した表情を浮かべていた。
しかしその混乱が長く続くことはなかった。
近衛兵団によって封された謁見の間の扉。その付近が俄かに騒がしくなる。
そして、近衛兵が何事かを告げる声が聞こえた。それをその場にいる者が一様に訝しんでいると、突然激しい音をたてて扉が開いた。
いや、開かれたと同時に、そこから何者かが姿を現す。
鮮烈に輝く金色の、影が。
「―――――ウィンリィッ!」
いきなり呼ばれた自身の名に、ウィンリィはびくりと震える。
そして、恐る恐る顔を上げた。見えるのは一つにまとめた金色の髪、軽鎧に当たってかちりと音を立てる王国騎士団長の証たる剣。
急いで来たのか。乱れた息を整えるその表情はしかしひどく真剣であった。
こちらを射抜く琥珀の瞳。それは痛いくらいに、鋭い。
突然この場に登場した少年。それは、若くして騎士団長の任を受けた天才で、“鋼”の異名を大陸全土に渡らす騎士。
そして、姫君の家族でもあり、想い人でもある存在。エドワード、その人であった。
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