<冷静と激情>






広大な邸宅の中でその一室は特に重要な場であった。
重く古い扉を開くと、まず見えるのは大きな机。
そして、次に視界に飛び込むのは壁一面にずらりと並ぶ皮張りの書物だ。
それは一種の威圧感をもって強烈な印象を与える。
漂う空気は常に張り詰めている。
慣れない者ならば、いや慣れた者でさえ緊張を覚えるほどだった。
だがそれも当然であるかもしれない。
この家の主たる者が自らの職務を全うするための場としてこの部屋は時を重ねてきたからだ。 重厚ながら艶やかに輝く机も、居並ぶ皮本も、その全てが。
絶対たる権威の証であった。
しかしあくまでも象徴に過ぎない。物は物に、過ぎないのだ。
実際の所で権威や力をもつのはもちろん部屋の主なのであって、机や本ではない。
そう、この部屋の主であり、家長たる者。つまりは今、この時に机に向かっている男。
彼が、このエルリック家で最も権威と権力を持つ存在、現当主であった。









彼は先程から、眼鏡越しに書類を睨んでいる。
殆どの事務的な仕事は次期当主たる上の息子に任せているとはいえ、やはり当主としてやらなければならない事は少なくはない。
効率よく処理するためには、本来ならば全てを任せてしまった方が良いのかもしれない。
しかしそれは彼にはまだ出来なかった。
与えた仕事をこなしてはいるといえ、息子にはまだ完全に家督を譲るわけにはいかなかったからだ。


あの子は、まだ理解していないことが多すぎる。
現実や、世間が見えていないといった方がよいのだろうか。
そう、だからこそあれほど馬鹿げたことを言いだしたのだろう。
世迷い事と言っても足りない程のことを。目を伏せて、彼は息を吐く。
気分が悪い。それが息子に対しての呆れからくるものならば尚更、だ。



しかし気を取り直してまた書類に目をやろうとした、その時。
ばしん、と大きな音が部屋に響き渡った。
何事かと顔を上げた彼の視界に映ったのは、その息子であった。
走ってきたのだろうか、息は荒い。
そして、明らかたる怒りをその金色の瞳に浮かべ、こちらを睨んでいた。
普通の人間ならば恐怖を覚えて震え上がってしまう程、その様子は激しいものである。
だが、男はもちろんそのような感情など微塵も覚えなかった。
逆に、ノックもせずに入ってきた息子を咎めるために、口を開こうとする。
いきなり何だ、エドワード。そう、言おうとした時。
また大きな音が部屋に響いた。それはエドワードが彼の机に、両手をついた音であった。
明らかに不快な顔をした父などまるで気にもしないように、彼は身を乗り出して告げる。


その瞳に、強い怒りを見せたままに。







「……あいつに、何をした……!」



唸るような、押し殺すような低い声が響く。
しかしそれを受けた男は、僅かに眉を動かしただけた。
息子の言葉に驚く様子も、また恐れることも全くといって無かった。
ただ穏やかとは決して言い難い憮然とした、無表情めいたそれで逆にエドワードを見る。
そして、息を一つ吐いてから鷹揚に口を開いた。



「こんな時間に、何だ。仕事は、終わったのか」



重く、静かな声がエドワードの耳に届いた。
しかしその言葉は、質問を受けての回答からは余りに離れすぎている。
そのことに一瞬、虚をつかれた彼であったが、直ぐに再び目付きを鋭いものにする。



「……質問しているのは、オレだ。アイツに、何を」



何をした。しかしその言葉は完全に相手に届くことは無かった。
いや、或いは届いていたのかもしれない。
しかし現実として、エドワードの声はかき消された。
部屋の主は、大げさなほどにまた息を吐いたからである。
それが本心であったか、それとも意図的なものであったかはわからない。
しかし父はただ呆れたように、告げた。




「仕事が終わったのなら、招待状の返事でも書いていろ。
 ずいぶん溜まっていると執事が嘆いていた」

「……人の質問に、答え」

「大体お前は社交というものを軽視しすぎだ。
 ちゃんと夜会や晩餐会に出ろと言い付けたはずだが?」

「いいから、質問に」

「社交がきちんと出来てこそ、一人前の紳士と呼べる。
 そう、昔から言っているだろう」




部屋の主はエドワードを一瞥する。
しかし睨み続ける息子など真実、気にはかけていないのだろうか。
ゆっくりと手にしていた万年筆を置く。
かちりと静かな音がエドワードの耳に届いた。



「……おい」



エドワードは、呼び掛ける。しかしそれは父には届かない。
証拠に、無感情な低い声は、今の彼にとって見れば必要とは思えぬ事柄だけを紡いでゆく。




「卑しい成り上がりでさえ、社交会に堂々と出る世だ。
 貴族として、ゆくゆくは国の一翼となるお前がそんなことでどうする」

「………おい」

「お前の有様一つで、家名に傷がつくこともあるのだ。
 自覚を持った行動をしろといつも」

「………おいッ!!」




今度は、エドワードの怒声めいた、いや怒声そのものが、淡々と続く言葉を遮った。
感情に任せたままに彼は父親の胸倉を掴む。
そして、それまでより遥かに鋭くまた険しい相貌で見る。
激情的な感情からくる行動であった。
質問に答えず、意図的に話を取り合わない父に対する怒り。
そして、こうしている間にも彼女は、という焦りが彼を冷静さから遠ざける。



「オレの質問に答えろ。アイツに、何をした!」



いっそ、悲痛なまでに彼の喉から問いは発せられる。







「………何を、したんだよ……!」







しかしその必死にも聞こえる言葉。
それに対して返ってきたのは、冷ややかに見下ろす金色の瞳だけだった。
ただ、まっすぐにエドワードを見つめるだけだ。
その琥珀色めいた視線は、鋭く研ぎ澄まされた矢のように彼を貫く。
答える気は無い。いや、答える必要など無い。
そう、瞳はありありと語っている。痛烈なまでの、拒絶であった。
エドワードは思わず息を飲む。だがしかし視線を外すことはしなかった。
ただ父に飲みこまれぬように、睨み付けた自らの眼光を強くする。






しかし彼は、また一種の違和感に似た感情が自身に襲い掛かってくる心地を覚える。
まるで冷たい剣を喉元から少し離れた所に突き付けられたような、そんな心地だ。
恐怖、ではない。そう名付けるには足りない。
ただひたすらに威圧を感じる、と言えばよいのだろうか。
そしてそれはこの場において。
この、当主の執務室において誰が権威を持つ者なのか。
ひいてはこの家の権力を誰が握っているのか。
そのことを暗に示していた。
強いのは誰か。力を持つのは、誰か。
その答えは、明らかである。



それはエドワードにしてみれば当然のことで、既知のことであった。
しかし改めて気づいたその事実に、彼の心は僅かに変化を見せた。
僅かに窓から零れる光が、父の眼鏡に反射して輝いたのをきっかけに我に返る。
冷静な思考が、少しではあるがその働きを取り戻してゆく。
眼鏡の硝子に映る自らの金色の瞳は、揺れていた。
エドワードは、掴む手の力を微かに緩める。
しかし父はやはりそれでも、口を開くことはなかった。
やはりただ、息子を無表情に見下ろすだけである。
エドワードもまた、動かなかった。
そして時は、空間はそのまま動きを止めてしまう。













いったいどれ程の間、この濃密で重厚な均衡は保たれていたのだろう。
それを破ったのは、息子の方であった。



「………くそっ……!」



忌々し気に呟く。
だが、その口がそれ以上の問いを重ねることは無かった。
こうなった父が、自身の問いに答えるわけがないこともまた彼にとってみれば既知のことであったからだ。
そしてまた真実、彼は求めた質問の答えも分かっていた。
彼女に、この父が何をしたのかということ。それは、嫌になる程に。
それでも、冷静さに欠けた心はそれを問わずにはいられなかった。問い詰めたかった。
しかし、それは正しいことなのか。
エドワードは、乱暴に掴んでいた胸倉を解放する。



激情が無くなったわけではない。怒りが、消えることがどうしてあるだろう。
だがそれでも回復した僅かな理性は思考を彼にもたらす。
そうだ。父が自身の問いに答えることなど在り得ない。
ならば、ならばこうしている時間が惜しいのではないか。
もっとやらなければならないことがあるはずではないか。




とうとう捨てるように息を吐くと、エドワードは踵を返した。
こちらを見る視線に気付きながらもそれに無視を決め込む。
そして元来た方へと足を向けた。
落ち着いたとはいえ未だ納まらぬ憤りや、激情をぶつけるように扉を開ける。
大きな音が、辺りに響き渡った。
しかしそれにも気を止める事無く、エドワードはそのまま、部屋を後にする。
そして、廊下へと駆け出していった。















部屋に残るは、当主その人の姿だけだ。
乱れてしまった衣裳を直しながら考えるのは、息子のことである。
それは彼にとって気分の良いものではない。
感情に流される者など、不快以外の何物でもないからだ。
同時に、敵意にも似たあの視線を思い出して、彼は眉をしかめる。



情けない。やはり、まだあの子は甘い。
貴族として、公爵の位を国王陛下から承った身として自覚が無さ過ぎる。
頭に浮かんだのは、そんなことばかりであった。



ああ、そうだ。自覚が無い。
だからこそ、あれ程に感情的で、あれ程に愚かなのだ。
若さ故、との理由では済まされない感情を、望みを抱いてしまったのだ。
なんと馬鹿げたことか。なんて、下らないことか。
たかが使用人一人に、次期当主が翻弄されるなど冗談にしても笑えない。






彼は息を吐く。事実は、ただ気に食わなかった。
すると、その時。騒ぎを聞き付けたのだろうか。部屋の扉の側に妻の姿を見つけた。
その美しい顔は青白く、瞳には動揺が見て取れる。眉は下がっていた。
そうして彼女は、不安げにこちらを見ている。自らの胸の辺りを握り締める手は震えていた。
しかし思い切ったのだろうか。恐る恐る、口を開く。



「……あ、あの。エドワー、ド、は…」



そしてちらりと彼を見た。彼女が何を言わんとするかが分かったのだろう。
彼はトリシャに向き直った。そして、ゆっくりとその唇を動かす。



「案ずるな、トリシャ」



それまでよりも静かな、やわらかい声色が辺りに響いた。
名を呼ばれたことと、言われたその内容にトリシャははっとする。
だが、優しい声とは逆に、彼女の夫の表情は無表情とはいえないものの近いそれであった。
そのことに彼女は漠然とした恐怖を覚える。唇が、不思議なまでに震えていた。
それを認識したのだろうか。当主は淡々と、独り言のように自らの言葉を続けた。







「直にあれにも、現実が見えてくる」






















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