<闇色の午後>





邸宅の一室。
厚いカーテンを開いた窓からは、僅かにやわらかな光が差し込んでいる。
しかし空は、その鮮やかな蒼を地に生きる者に全ては見せてはいない。
それは、完璧たる晴天となる日が少ないこの地において特段に珍しくは無いことだった。
曇と霧が多いこの帝都は晴れ渡ることが絶対的に少ないためだ。
しかしそれでも昼間になると、暖かな光が街並みを照らし出すものである。
だが、今日の天は、僅かに零れる太陽の輝きをかき消す如くに暗い。
空を覆い尽くす雲は、今にも泣きだしそうな程に厚く、重く、濃い灰色であった。


いっそ、危うげなまでに。









しかしそのように常ならぬ様相を示す窓の外とは違い、内側の世界。
つまり、窓の内である部屋の様子は日常との違いを見い出すことは出来なかった。
部屋はいつもと同じ、静かなものだ。
ただ、唯一。さらさらと薄い音が室内に響いている。
万年筆と紙が擦れるそれはひどく微かなもの。
しかし時が止まったかのように思える程静かなこの部屋では、異質にさえ感じる。
かといって煩わしさを覚えることは無い。
その響きは常にこの場に在るものであり、当然であったからだ。
逆にその存在があるからこそ、部屋は相変わらずの静寂、いや均衡を保つことが出来ているのかもしれない。
静寂であるのに、真実この部屋には音が尽きぬのだ。それが当然であり、必然。
もし絶えてしまったのなら、無くなってしまったのならば。
人はその余りの静かさに違和感さえ感じてしまうのだろう。
きっと、完全に音の無い空間などこの世には在りはしないのだ。
存在しえない、といった方が正しいのだろうか。
しかしそれでも、静寂とは相対的に判断されるものである。
真実、静かでは無くともその場に身を置く者が音は無いとみなせば其処は静寂な空間であるのだ。
また、或いは。その音に気が付かなければ。
気にならない程に何かに意識を注いでいるのならば、やはりその者にとって其処は静寂で在り得るのだろう。








それは、先程から仕事を続けるエドワードにも言えることであった。
机の上に積み上げられた書類に目を通しながら、黙々と、淡々とそれを処理してゆく。
しかし、彼の意識は其処には存在しなかった。
金色の瞳はタイプライターで打たれたインクの定型文字や、何処ぞの貴族が自らの手でもって記した流麗な筆記体を追いはするものの、頭で本質的に考えることは違うことだ。
いっそ機械的に、必要な所に必要な署名をするだけである。
その、紙を擦る僅かな音は益々と彼を、思考の世界の深みへ引き込んでゆく。
それが彼の望みなのかは分からなかった。
しかし現実としてエドワードは考えを巡らせている。
正確には、ある事象に対する有効たる解決策をひたすらに探っていた。
そう、彼女とのことについての、だ。
どうしたら許されるのか。どうしたら認められるのか。
そればかりがエドワードの頭の中を支配している。
はっきりとした答えが浮かび上がったことはまだ一度とて無かった。
しかし彼はそれでも手を動かし続ける。続けて、いた。
先程から、ずっと。まるで密やかに迫る黒い不安という感情の影を払うかのように。




しかしとうとう、彼は手を止めた。
顔を歪めてから、ゆっくりとその身を椅子の背に預ける。
そして、息を吐いた。瞳を閉じる。
仕事をする気が無いわけではなかった。
自身の義務を放棄したわけでも、もちろんなかった。
敢えて言うならば、肉体的にも精神的にも疲労を感じていたといった所か。
ここ三日程、まともに睡眠を取っていない。逆算をすると、あの晩餐会の夜だろうか。
しかし肉体的なそれなら、心持ち一つで誤魔化すことは出来る。
だが、心の疲れはどうだろう。そうすることは出来ないものだ。








あれから、あの約束から。
気を張っては無かったといったら嘘になる。
自らを意図的に追い詰めていなかったといってもまた、同様だ。
彼女の笑顔に、信頼に答えたかった。
だから、どうにかしたかったのだ。どうにもならないことを。
しかし現実はそう、簡単にいくはずもない。現実は、現状は何一つ進展などしてはいない。
エドワードは、歯を食い縛る。
少しだけ広がる鉄の味は、ひどく苦かった。頭が、体が重い。





わかっている。何も出来ていない自らが悪いのだと。
こんな疲労など、取るに足らないことくらい。そんなものに気を掛ける資格は無いのだと。
それでも、愚かしいことに。この身は疲れていた。
この精神は、擦り切れそうな程の疲労から体の自由を奪う。



ある種の限界、だった。









エドワードは、自然と右腕を顔の上に乗せた。
閉じた瞳の中の世界はさらにその闇を濃いものへとする。
そこに浮かび上がるのは、一筋の金色。
やわらかなその輝きは彼に、はにかんだような笑顔を浮かべてみせる。







エドワードは自嘲した。彼女のためと思って、自らに課したこと。
そのための疲労など、徒労など何でもないはずではなかったか。
一人で、抱えるもののはずではなかったか。
いや、絶対に抱えなければならないもの。
しかしこの身は。理解しているはずのこの心は。それに反した欲望を抱いてしまう。
嗚呼、この弱い身は愚かなこの心はそれでも彼女の存在を求めると言うのか。




会いたい、と。




会って、話して、その細い体を抱き締めてしまいたいと。
彼女という癒しを、望んでいるというのか。
エドワードは握り締めたその手に力を込めた。
しかし物理的なその痛みは鈍いものであった。
自らの情けなさに反吐が出る。だが、それが真実であった。



会いたかった。





そして彼女の存在にただ、癒されてしまいたかった。











エドワードは、微かに息を吐く。
しかしその瞬間、来訪者が扉を叩く乾いた音がそれを打ち消す。
間を置かずに、入室を求める声がした。
彼はどうにか身を起こすと、許可を出す。
部屋に入ってきたのは、若いハウスメイドであった。
定時になると、彼女達はエドワードに紅茶を持ってくるのだ。
万年筆を手に取ると、彼は茶器の支度をする若い娘を見た。
顔は知ってはいるが、名前は出てはこなかった。
余り、彼の部屋を訪れることはない者であったからだ。


そういえば、エドワードはふと思った。
いつも、この時間に紅茶をいれてくれたのはあの幼なじみの娘であったと。
顔をしかめて書類を睨む自分に、そんな顔をするなと、呆れていた。
でも、それから頑張れと笑顔で言ってくれたものだ。


それがどれほどうれしかったことだろう。
どれほど、支えになったことだろう。







しかし、ここ三日程その微笑みを目にしていない。
いつもとはいえ、毎日この時間に彼女がやってくるというわけでは無かったから、今までは疑問に思わなかった。
トリシャのお気に入りでもある彼女が、特別に用事を与えられることもあったからだ。
しかし、これほど姿を見ないことがあっただろうか。
いや、そもそもこの時間に限ったことではない。夜や、朝も彼女は姿を見せていない。
いくらなんでも、三日間一度も、というのは妙ではないか。
エドワードは眉をひそめる。

これはどう考えても、おかしい。





しかし更にその思考を進めようとしたその時、ふわりと暖かい香が彼の鼻を掠めた。
見ると、例のハウスメイドが紅茶の入ったカップを手に近づいてくる。
どうぞ、そう言って差し出されたそれを、彼は反射的に受け取った。
口にすると、熱い液体が体の中へ流れこむ。
しかし、芽生えた疑問はそれと共に落ちてゆくことは無かった。
逆に、どんどんと育ってゆく。不審は、強くなる。
エドワードは、机にカップを置いた。
かちりと無機質な音が静寂な部屋に響く。
彼は茶器の片付けをするハウスメイドに向き直った。
そして、静かに口を開く。


最近、彼女の姿を見ないが何かあったのか、と。








しかし彼は後に悔いることになる。
何故、どうしてもっと早くにこの疑問に気がつかなかったのかと。















ハウスメイドは、突然若き主人に声を掛けられたことに驚いたのか。
はっきりとした困惑を顔に出す。
もしかしたら、その問われた内容にも戸惑ったのかもしれない。
しかし、どうにかそれを正してどこか躊躇いがちに、告げた。




彼女は、先日辞めてしまったのですが。ご存じ、ありませんでしたか?




そして、不思議そうにエドワードを見る。
まるで彼が既にこのことを知っているとでも思っていた様子だった。
しかし彼女の主人は、その問うような視線に気が付くことは無かった。
大きく目を見開いて、息を飲む。
その常ならぬ様子を見た若いハウスメイドは、自身の行為にどこか否があったのかと感じたらしい。 あの、エドワード様?そう呼び掛ける。
だが、彼はそれにすら答えなかった。
聞こえてはいるが、頭の中にそれを情報として処理する余裕が無かったのだ。
目の前の世界が、途端にぐらりと歪み始める。
目眩、だった。






しかし衝撃に固まった頭はそれでも再び回り始める。
その時にまず浮かんだのは、純粋たる疑問だった。
待っていてくれと約束をした。彼女は、それに笑顔でもって答えてくれたではないか。
それなのにどうして。あれから、一週間も過ぎてはいないのに。
何故、彼女が此処を去る必要がある?
しかも自分に一切、何も告げずに。
そんなことありえない。考えられないではないか。
困惑と混乱が体の中を駆け巡り続ける。
しかし同時に、彼の優秀と称される頭脳はそのありえない事象に対する可能性をゆるやかに、導き出すのだ。


そう、エドワードは考える。
彼女の意志で、辞めたとはどうしても考えにくい。
もし望んでのことだとしても、何も告げずに去るなどありえない。
ありえない、のだ。 だが、しかし。こう考えたらどうか。


そう、彼女の意志ではないのなら。







辞めた、のではなく辞めさせられた、のなら――――――――――…………












そこまで考えが到ったその瞬間、エドワードは立ち上がった。
がたりと椅子が大きな音を立てる。
突然のことに、彼を不安気に見ていたハウスメイドは驚きの声を上げた。
しかし、やはり彼にそれを気に止める様子は見られなかった。
エドワードは立ち尽くしたままであった。
しかしその自身が思い当たった恐ろしい可能性について更に考える。
もし、そうだったとしたら。もし、この考えが正しいのなら。
いったい誰が、何のために。考えるのは、そこだった。
しかしその答えは簡単に出る。そんな権限を持つのは、屋敷の中には数人しかいない。
その中で、彼女を辞めさせる理由を持つ者は。
彼女と、自身の関係に気が付くことが出来る者は。
そしてそれを、望まない者は。






エドワードは、顔を歪めた。金色の相貌には、はっきりとした怒りが浮かぶ。
その黒く強く影色の感情はエドワードの胸の辺りでその重さを増してゆく。
敵意にさえ、等しいほどに。
よくも、彼女を。それだけしか考えられなくなるほどに。
もはや冷静な思考など欠片とて残ってはいなかった。
ただただ、激情が体を瞬時に支配する。



「………くそ…っ!」








唸るように。 吐き捨てるようにそれだけを低く呟くとエドワードは部屋を飛び出していった。
後に残るは、未だ恐怖と困惑に呆然とした若いハウスメイドだけである。
机の上の紅茶は、やわらかに湯気を立てて部屋にその香を漂わせる。
まだ、温かいままであった。














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