<約束の果て>





屋敷の長い廊下は、暗さと明るさが混沌としたようであった。
永劫の闇を想起させる暗がりと、そこをぽつぽつと所々に灯しだす明かり。
等間隔に備え付けられたランプの光は実に頼りない。
一人でそこを歩くには恐怖を抱くものだ。
しかし、歩けないというわけではない。
証拠に、彼女は覚束ない足取りながらも歩みを進めていた。ウィンリィである。
顔面は蒼白、常には先を見据えているはずの空色の瞳は、揺れている。
まるで困惑しているような、何かに絶望して打ち拉がれているかのような、そんな様子だ。
いや、事実彼女はそうであった。確かに困惑し、絶望していた。
本当は立っているのも辛い程である。どうにか気力で耐えているといった所か。
しかし今にも崩れ落ちそうな体は、先程から震えたままである。
絶望が、彼女の中をただ巡っていた。
それを止めることは、出来そうもない。もうどれくらいそうしているのか。
それすらも、分からなかった。
それほどに、彼女は追い詰められていた。







突然受けたトリシャからの宣告。
それに、動揺し、絶望した彼女がどうにか立ち上がって。
向かったのはエドワードの執務室であった。
これからどうしたらいいのか。そのことを相談するための行動。
しかしそれ以上に。彼女は、ただ会いたかった。
会って、話をしたくて。大丈夫だと、言ってほしくて。
それだけだった。
だが、辿り着いた其処で扉を叩いても、何の返事も無い。
幾度となく叩いても、入室の許可が下りることはない。
耐えかねて呼び掛けた声に対しても、何も答えはなかった。
震えた手でドアノブを回してみる。しかし、扉は開かない。
普段遅く迄仕事をしている彼が、こんな時間に眠りに就いたとは考えにくかった。
考えられる結論はただ一つ。恐らく、どこかの夜会にでも出かけているのだろう。
つまりエドワードはここにはいない。
たから今は会えない。話も、出来ない。今日帰ってくるかさえ、分からない。
そこまで思い当たって。ウィンリィは息を飲んだ。
そして恐る恐る扉を見上げる。それは全てを拒絶するかの如くウィンリィに威圧感を与える。
会えない。話せない。
そう、それまでより遥かに強い絶望が彼女を支配した。
そして行き場のない問いを繰り返す。
どうして。何故。そんなことばかりがただひたすらに。
はっきりとした記憶があるのはそこまでであった。
突き付けられた残酷で皮肉な現実は、彼女から直ぐに全ての動きを奪ったのだ。











そして、現在に至る。いったいどれだけの時が流れたのだろう。
ウィンリィの足は無意識にまた歩みを始めていた。
歩いて、歩いて、しかし巡る感情はどこまでいっても絶望以外の何物でもない。
もはや何処を歩いているのかさえ分からなかった。
ただ、冷静とは言い難い思考に支配される頭に浮かぶのは、突然受けた解雇の宣告。
明日にはこの屋敷を出ていかなければならないという事実。
どうしたらよいのか、という疑問。そんなことばかりだった。




この屋敷を出て行きたくはない。しかし、出ていかなければならない。
自分達の関係に気付かれたための処分。
恐らく、従ったならば二度と、彼には会うことは許されないだろう。
姿を見ることすら無理に違いない。
そんなこと、自分は受け入れられるだろうか。
別れることなど、出来るのだろうか。
その答えは、彼女の中に既にある。
嫌だ。耐えられない。どうして、受け入れられよう。
そう、考える必要などないくらいウィンリィはそのことを知っていた。






しかしトリシャの命に逆えないのが自身であることもまた彼女は解っていた。
そう、逆らうことなど出来やしない。決して。
そう、分かっている。だが、それでも。
それでも彼女の頭に浮かぶのはただ彼の姿だった。
笑顔も、拗ねた顔も、怒った顔でさえ容易く頭を過ってみせる。
そして、それは全て最も新しい記憶を連れてくるのだ。
あの夜の約束を。



そう、彼は言ってくれた。待っていろと言ってくれた。
だから、待つと答えた。



それを違えることなど出来るのだろうか。
いや、出来やしないからこそこんなにも、分からなくなる。
だからこそ、どうしたらよいかなんて分からなくなる。








でも、本当は。
本当は、ウィンリィは気付いていた。
分からないふりをしているだけで。本当は。
全て、何もかも理解していたのだ。何が最良なのか。
そう、このまま何も言わずに此処を去るのが最も正しいことであることを。
二度と、彼に会わないことが一番の道であることなど。
こんな感情、身分違いに過ぎないのだと。
しかし自らの心はそのことを認めようとはしない。
いや、認めたくない。諦められない。


















ウィンリィは歩みを止めた。
思考に逆らって動いていた足は、不思議とその動きを止める。
そのことに少しだけ驚いたが、直ぐにこう思い直した。
違う、理性に逆らってばかりなのは、自分の心なのだと。
きゅっと唇を噛み締める。
微かな痛みで、冷静さを取り戻そうとする。我に返ろうとする。
そしてふと気付いた。
そういえば、何も考えずに歩いてきたけれど、此処は何処なのだろう、と。
彼女は辺りを見渡してみる。
すると、沢山の肖像画が薄明かりの中に浮かんでいるのが分かった。
幾つかの調度品も目に入る。今は光を灯されてはいないが、大きなシャンデリアもある。
恐らくここは、来客用の玄関ホールだ。毎日掃除をしている所だった。
なんて遠いところまで、彼女は自嘲する。
そして、ふと思い出した。
ここに通されたエルリック家への客人を、今まで何度も見てきたことを。
中には今の自分と同年代の娘の姿も幾つかあったことを。
しかし、同じであったのはその年だけである。姿はまるきり違っていた。
彼女達は煌びやかな衣裳に身を包み、華やかな化粧をしていたのだ。
きっと、貴族の娘というのは。
大貴族である彼に相応しい娘というのは彼女達のような姿なのだろう。







そこまで考えて、はっとする。何か冷たいものが、心の隙間に入り込んでくる。
ウィンリィは自然に震え始めた体を押さえ付けようと、自身を強く抱き締めた。
しかし震えは止まらない。だが何故か、思考は淀み無く動く。
それが自身に絶望しかもたらさないとしても。
あぁ、そうだ。ウィンリィは、考える。
彼に相応しいのはきっと、いや絶対に彼女達だ。
それに引き替え、自分はどうだろうか。
身に纏うのは使い古した黒いワンピースに洗いざらしのエプロン。
化粧など、殆どした試しが無い。ただの、使用人だ。使用人に、過ぎないのだ。
華やかなドレスも、此処に置かれた豪華な調度品も、あの天井に釣り下がるシャンデリアも。 どれも自分には似合いはしない。
最初から、住む世界が違うのだ。
身分が違い過ぎるのだ。


そんなことわかっていたつもりなのに。
どうして、今更になって気付くのだろう。
いや、本当に分かっていたのか。
分かっていたのなら何故彼の隣に居たいなんて考えただろう。
どうして彼と同じであるなんて、そんな勘違いをしてしまったのだろうか。
そんな、余りに大それたことを。余りに馬鹿げたことを。








しかし、そう考えはするものの感情は簡単に静まってはくれなかった。
ウィンリィは零れ落ちそうな涙をどうにか堪える。
そしてそれを誤魔化すためにふるりと一度頭を振った。
それからゆっくりと顔を上げる。
と、沢山ある絵画の中で一際大きな肖像画が視界に入った。
じっと見つめてくるその中に描かれた金色の瞳に、言い知れぬ恐怖を感じる。
しかし、視線を外すことは出来なかった。
豪華な衣裳に身を包んだ彼の人は、過去に生きた一族の一人、おそらく何代か前の当主だろう。 周りにある絵画も同様だ。
沢山あるそれらに描かれた人物は皆、一族の者なのだ。
中にはもちろん現当主や、その妻であるトリシャの絵がある。
そして、息子である二人の兄弟の姿もあった。
それはエルリック家の歴史の長さと、貴族としての尊さを示す標であった。
その中の一人、ウィンリィを圧倒する男は未だに、彼女を見ている。
いや、彼だけではない。他の絵もまた呆然と立ち尽くす彼女を見ていた。
正確には、見ているかのような錯覚を彼女に覚えさせる。
そして彼らは皆が皆、こう問うてくるのだ。




身分違いが、卑しき者が、何故この場に居る。
何を、思い上がる。




そう、彼女を責めてくる。
しかしそれは彼らの言葉であって、真実そうではない。
ウィンリィ自身が、ずっとずっと感じていたことだった。
彼の言葉を、気持ちを信じながらも、それでも心の奥底に在った不安そのままであった。








遂に、崩れるように。ウィンリィはその場にしゃがみこんだ。
頭を、自らの膝に預ける。そして、声も上げずに。
いや、決して声を上げないように嗚咽を漏らした。
静かに、誰にも気付かれないように。自分の恋情をしまい込むためだけに。
こんなもの、涙とともに流れてしまえばいい。
そうして微かに零れる声はランプに照らされた薄闇の中に直ぐに溶けてゆく。
だが心に灯ってしまった金色の輝きが溶けてしまうことは無いだろう。
許されざる感情を抱いてしまった罰は、きっと彼女を縛り続ける。
甘く狂おしく哀しく、どこまでもずっと。



(だけどこの痛みだけはあたしに許される、あたしだけの感情で。
 どんなに苦しくても、あたしだけの)














静かなその時間は決して長いものでは無かった。
決意したかのように、ウィンリィは立ち上がる。
顔は少し腫れてはいたものの、潤んだ瞳からはもう何も零れてはいなかった。
そして、また歩みを始める。その足取りに危ういところはもう微塵も見られなかった。
立ち止まる気配さえ無い。しかし、ふと見上げた視線の先。
其処に在った一つの絵に、正しくはその中に描かれていた人物の姿に。
彼女はただ一度だけ足を止めた。
最も新しい絵画の一つであるそれには、十にも満たない少年が描かれている。
笑顔を浮かべた彼は、琥珀色の瞳でただウィンリィを真っすぐと見つめていた。
次期当主である青年が、まだ幼い頃の肖像画。
しかし彼女にとって、はにかんだようなその笑顔は余りに辛いものであった。
痛いほど、胸に突き刺さる。
どれだけ望んでも、もうこの笑顔を見ることはないだろう。それが苦しかった。
絵の中の少年と自分は、余りに住む世界が違いすぎる。
手を伸ばした所で、遠すぎるのだ。遠すぎて、届かない。
どれだけ願ったとしても、その現実を覆すことは出来ない。
それが、ただ、辛かった。



とうとう見ていられなくなって、彼女は思わず瞳を強く閉じた。
そして、胸中で呟く。



ごめんなさい。約束、守れなくて。
ごめんなさい。好きになってしまって。




だがそれを声に出すことは、出来なかった。
口を開いたら、また涙が零れそうだったからだ。
しかし、少年がその謝罪に答えてくれることはない。
きっと未来永劫ないのだろう。
知らずに握り締めた掌に、力を込めて。二度と少年を見ないように。
ウィンリィは視線を行くべき方へと戻した。
ゆっくりと目蓋を開け、そして逃げるようにホールを後にする。
廊下は、ランプが灯っているとはいえ先はまったくといってよい程見えない。
しかし、彼女は迷い無く進んでいった。
直ぐにその姿は、闇の中へと埋もれてゆく。



しかし絵の中に居る少年は、彼女のそんな決意など知るはずもない。
ただ永遠に曇らぬ微笑みを浮かべていた。










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