<過去は鮮やかに狂おしく>









その部屋は決して明るいとは言えなかった。
しかし、かといってその薄闇は常ならば不快ではない。
使い込まれているものの、きちんと手入れをされたランプ。
その中で静かに燃える蝋燭の淡い輝き。
控えめながら部屋を照らしている白と橙の混じった色彩の光。
それはどこか安心を覚えるものだったからだ。
決して、恐怖を感じることはない。対照的に、窓の外に広がるは闇。
星々すら姿を隠した空には唯一、歪な形の月が浮かんでいる。
そんな静かな、暗い夜だった。
しかし、件の薄ら明るい部屋。
そこに存在する二つの影の間に流れる空気は緊張を保っている。
静かでは有るが、普段のこの部屋に満ちる穏やかさなどまったくといって、無い。



「……え……」



それまでの静寂を破るように。小さな声が、響いた。
それは自身の受けた衝撃が思わず漏れたものだったのか。
その証拠に、声の主はその空色の瞳を見開いている。
そして茫然と、目前の椅子に腰掛ける者を見やる。
困惑しているのが手に取るように分かる程ゆるゆると。
そう、彼女は、ウィンリィは惑っていた。そんな様子を感じ取って。
対峙する影は、いやトリシャは僅かに顔を歪めた。
しかし、それを直ぐに正して。
自然と逸らしていた視線を、驚きと混乱で揺れる薄青の視線と合わせて。
再びトリシャは口を開く。もう一度言うわ。
そう、先程このうら若きハウスメイドに対して行った宣告を、再び。



「…………貴女には、此処を辞めてもらいたいの」



静かな響きを持って、それはウィンリィの耳へと届いた。
先程告げられた内容とほぼ変わりはない。
つまり、彼女の聞き間違えというわけではないのだろう。
証拠に目に映る女主人の視線は、蝋燭のぼやけた光源の中でもしかと感じることができる。
いっそ、痛いほどに。だからこそ、ウィンリィはこれほどに戸惑っている。困惑、している。
何故、どうして。いきなり。そんな疑問が頭に浮かんでは消えていった。
しかしその答えは彼女自身、どこか漠然としてはいるが覚えがあるのだ。 それはきっと、先程自室で感じた厚雲のごとく胸を支配する感情に起因するものだ、と。
不安ではないと自身に言い聞かせて誤魔化した、不安そのものであると。



「な、ぜ……です、か?」



しかしそうはいうものの。
彼女の桜色の唇は、震えながらも疑問を形にする。無意識だった。
だが音に為ったその声はまたひどく震えている。
それを知覚したトリシャは、見ていられなくなったのか。
彼女から痛々しくも視線を外す。そして、そのまま口を開いた。



「……それは」

「それ、は……?」

「………言えないわ」



ごめんなさい。ひどく重々しい声が、静かな部屋に響いた。
蝋燭が燃える微かな音はそれにかき消されてしまう。
しかし、今のウィンリィにそれを気にする余裕など有るだろうか。
彼女は、まだ混乱の淵から抜け出せずにいた。
ただ、口を開き、そのまま顔を背けたトリシャの告げたことは理解できた。
しかし、それに対して何か言うことは出来ない。
理解は出来ても、受け入れることがうまく出来なかった。
だから、だからこそ。窓の外の深遠の闇。
それが部屋の中に入り込んできて、更に自身の心や身体すら侵食するような感覚を覚える。
冷たいそれは名を付けるならば絶望か。
思わず、ウィンリィは震えた手を押さえ付けるようにスカートを握り締める。
全てが理解できたからこそ、彼女は怯えるのだ。







突然の解雇通知の理由。そして、トリシャが答えられない理由。
そしてこの心優しい主人がどうしてこれほど辛そうな顔をしているのか。
それらは一つの結論しか導きだせない。
混乱、戸惑い、恐怖、絶望、ほんの少しの諦め。
それが全てが解け合い、心も頭も重く曇る。
一瞬、目の前が真っ暗になった心地がした。
そこに、反射的に金色の影が巡る。そうだ。
ウィンリィは瞳を閉じる。彼、だ。
そして、スカートを握る手に力を込める。
彼のことだ。彼と、自身の関係。
許されるはずもないあの関係のことに違いが無い。




そこまで考えたウィンリィを包んだのは、やはり絶望以外にありえなかった。
どうすれば、どうしよう。
そんなことを考える余裕すら今の彼女には欠如していた。
急に申し訳ない。他家への紹介状は与えるから。だから、明日には出ていって欲しい。
そのように、ウィンリィから顔を背けたまま淡々と告げてきたトリシャの声は、どこか遠くで聞こえる。
瞬きさえ出来なかった。体の、震えはとても止まりそうもない。
ただ、茫然とトリシャを白い顔で捉えることしか出来なかった。



「……これが、紹介状」



突然、自身に向かって伸ばされた手にようやくウィンリィは我に返った。
紹介状と言って差し出された紙はひどく薄い。何か細々とした字が書かれている。
しかし、薄明るい部屋でそれをしかと認識することは出来なかった。
ただ、トリシャのサインだけが辛うじて読み取れたに過ぎない。
ひどく無機質なものであった。
しかしそれは彼女を解雇するという何よりの印だ。
もう、この家にいることは許さないと宣告する、証。
しばしそれを茫然と見ていたウィンリィであったが、恐る恐る、と呼ぶにふさわしい様子で顔を上げる。
そこに見えたのは、こちらを痛々しいほど見つめるトリシャの眼差しであった。
きゅっ、と結んだ唇や哀しげな表情はまるで今にも泣きそうに見える。
しかし、それは同時に有無を言わせない力もまた持っていた。
ウィンリィは、思わず息を飲む。
こんなトリシャの顔など、見たことが無かった。こんな、辛そうな顔など。


こくり、喉を鳴らす。
そして、彼女はゆっくりと自らの腕を伸ばして薄い紙を受け取る。
掴んだ手は、未だ震えていた。足もまた同様である。
空色の瞳は、その紹介状を捉えてはいたものの、それを映し出すことは無かった。
そんな彼女を見て、女主人が堪え難い様子で視線を外したことに気付くはずもない。



「……話は、これでお終いよ」



もう下がっても良いから。
どうにか、平静を装ってトリシャはそれだけを告げる。
動かない頭で、ウィンリィはそれを認識した。
体の震えも、混乱も何もかも収まってはいない。しかし、ぺこりと頭を下げる。
そう、することは彼女にとっての当たり前であったからだ。
どんなに、望まない命を告げられようとも従うことが。
そう、ウィンリィにとって、トリシャは絶対であった。
それに対して異を唱えることなど誰が出来よう。
主人である彼女に対して。
孤児だった自身を拾って、使用人として教育を授けてくれたトリシャに対して。
恩ある“奥様”に対して何か言うことなど出来るはずはないのだ。
そんなこと、許されるわけもない。



「……失、礼しました」



どうにか絞りだすように出した声は、少し擦れていた。
動かない足を叱責して、ウィンリィは踵を返す。
扉を開けた後、もう一度振り返って頭を下げた。
しかし、かの女主人の表情は蝋燭の明かりではまったくといっていいほど伺うことは出来なかった。






暗い廊下に出た瞬間。
自身を抱き締めるかのようにしてその場に力なく座り込んだ彼女を知るものは、誰もない。















薄明るい部屋に、蝋燭が燃える音だけが響いている。
トリシャは、猫足の椅子に腰をかけたままだった。
両肘を自らの膝に付け、顔はまた両手で被うその姿はひどく憔悴しているように見える。
いや、実際彼女は疲れ切っていた。しかし思考は淀み無く動いている。
閉じた瞳に映る少女の姿は、ひどく幼い。初めて会った時の記憶だ。



観劇に出かけた折、中央劇場の前で見かけた彼女にトリシャは驚いたものだ。
薄汚れた格好で、沢山の浮浪児の中に居た少女。
世を、自身の運命を嘆くあまり淀んだ瞳をした子らの中に居た少女。
だが、彼女はその集団の中では違っていた。
空の色を映しこんだ汚れ無き瞳で、真っすぐにトリシャを捉えていたのだ。




一目で気に入った。おもしろい、とさえ感じた。
だから、戯れに屋敷へと引き取ったのだ。
浮浪児を使用人として教育できたら愉快だろうと、そんなことを考えて。
しかし、トリシャのそんな慢った感情に気付かなかったように、彼女は純真な笑顔を向けて慕ってくれた。
恩義を感じ、よく仕えてくれていたのだ。トリシャは知らずに、歯を食い縛る。






いつからだろう。


そんな、彼女の幸せを祈るようになったのは。
向けられた笑顔に、子に対するような愛しさを覚えるようになったのは。








本当は、相当な年ごろになったらそれなりの相手を見繕ってやるつもりだった。
後見人にさえ、なってやるつもりだった。
しかし、現実はどうだったであろうか。現実、彼女が恋仲になったのは、誰だっただろう。
ああ、現実はいつだって皮肉なのだ。
それは高慢で愚かな感情を抱いていた自身に対する罰なのか。




二人の関係について、彼女に確認をとったわけではない。
息子に聞いた所で、答えるはずも無いだろう。
だが、トリシャには確信があった。絶対に、彼女であるという確信が。
薄々ではあるが、感じていたのだ。
二人の間に流れる微かではあるが、それらしい空気を。

だから、直ぐに思い当たった。
そのことに、どれほど嘆いただろう。
嘘であって欲しいとそれだけ祈ったであろう。
自らの、予見など外れて欲しいと、どれだけ。



だが、先程の現実は、そんな希望をあっけなく壊したのだ。
恐る恐る自身を見た彼女のあの表情が、目が全てを語っていた。
悲しいほどに、全てを。








恐ろしいほど、身体が冷え込むのを感じる。
食い縛ったままの口元からは、少しだけ鉄の味がした。
だが、そんなことを気には出来なかった。
トリシャは、悔いていたからだ。
どうしてもっと早く二人を咎めなかったのだろう。
苦しみが強くなる前に、どうして言わなかったのだろう。
しかし、そう出来なかった理由が、自身の甘さに似た弱さにあることを知っていた。
自らの戯れによって、運命を捻じ曲げてしまったことに対する、罪悪感によるものと。



だからであろうか。
閉じた瞳に浮かんでいた少女の影は、だんだんと先程の娘の姿へと変わってゆく。
純粋な笑顔から、茫然と、泣きそうな顔でこちらを見ていたあの姿へと。






トリシャは、閉じていた目蓋を更に強く、ぎゅっと閉じる。
浮かび上がる姿を消すために。
そして必死に考える。自分自身に言い聞かせるのだ。
私は悪くない。彼女のためを思って、大事な息子の将来を考えた上での行動なのだからと。
しかし影は消えずに、鮮やかに無垢な笑顔さえ浮かべてみせる。
それが、トリシャにはひどく痛い。弱さの所為と思い込んだ感情が、溢れだしてしまう程に。




(あぁどうしてあの子でなければならなかったのだろう)










部屋は、相変わらずに薄明るいままであった。
窓の外にも、相変わらず奇妙な形をした月だけが輝きを見せる。
しかし、果ての無い懐古と疑問と懺悔の海に溺れ落ちるトリシャは、その夜の静けさに気付きはしない。
動くこともない。音を立てることも、ないのだ。



「…ど……して…」



あの子なの。思わず呟いた言葉は、蝋燭の静かに燃えゆく音に消されてしまう。
それはトリシャ自身にも届くことは、ついぞ無かった。












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