<円舞曲の中で>





帝国アメストリス。
この国には、二つの階級がある。つまりは上流階級か、それ以外かだ。
両者の間には埋めようもない差異が存在し、またその生まれる階級によって人は生きる道を既に決められている。貴族は貴族として。労働者は労働者として。
しかし、中には下流の出でありながらもそれをを良とせず、階級を越えようとする者もいた。
いわゆる、新興地主である。
彼らは努力、知能、才、そして運によって富を成し、今やそこらの貴族よりよほど経済的な力を手にしていた。そしてその力は既に国を支える一翼にもなっていた。
それを面白く思わない人間も多い。
伝統を壊す存在は、伝統に縋るものにとっては邪魔にしか思えないためだ。
だからこそ彼らは、しばしば蔑みをもってこう呼ばれている。
成り上がり、と。
だがそうやって社交界で疎んじられようと、彼らには自負があった。
自らが、先の時代を担う存在であるという自負が。
事実、これからは彼らの――――――資本家達の時代が待ち受けているのだ。
それに気が付く者は、はたしてどれほど居たのであろうか。
おそらく、この舞踏会に参加する者は誰一人とて、そのようなこと微塵も考えてはいなかったであろう。
そうでなければ、このように安穏な様子でいられるはずが無いのだから。
いやしかし。憮然として黙ったままのエドワード。
その隣に立つ男にはあるいは見えていたのかもしれない。

自らが時代を率いて往く、その姿が。
















「踊らないのか」



返事が無かったことを訝しんだのか、ロイは再び同じことを繰り返した。
告げられたそれに反応して、ちらりとエドワードは彼を見やる。
しかし、髪や瞳と揃いの色彩を持つ、上質のスーツに身を包んだ男の表情は無、といっても過言ではなかった。
それがどことなく気に入らず、視線を手元のグラスに戻してからエドワードは、口を開く。



「………そんなこと、アンタには関係ない」



はっきりと、そして強く言い切ったその言葉に男がやや驚いたのを気配で感じ取りながら。
彼は少しだけグラスを傾ける。
強い酸味と、重厚な薫りが口に広がった。
生温いその液体は、余り美味とは呼べるものではない。
思わず、エドワードが僅かに眉をしかめるのと、ロイがつまらなそうに息を零したのはほぼ同じだった。



「なんだ。つまらん。花の一つや二つ、抱えて踊るのは紳士の礼儀だろうに」



やれやれと言わんばかりに、わざとらしくまた息を吐く。
しかし、エドワードがその挑発とも取れる、いや挑発以外のなんでもない態度に応じることは無かった。気分がよいものではなく、また苛立ちを感じたのは確かであるが、彼とて、もはや子供ではない。家名を継ぐのも、婚姻をすることもできる年だ。
まして、今の彼は冷静さを備えていなければいけなかった。
感情的になることの危うさを、彼は昨日の夜に身を持って実感していたからだ。
そう、十分すぎるほどに。だからこそ、しばしの沈黙の後に告げる。



「………オレは、アンタとは、違う」



一つ一つ区切るように響いたその言葉に、今度はロイが軽く息を飲むのを感じる。
しかし、エドワードはそのことを気に掛けはしなかった。逆に、自身の言葉がぐるぐると回る。
そう、自分とこの男は違うのだ。置かれている立場も、環境も、感情の在処さえも。


ロイが、先程数人の女性と踊っていたのを、彼は視界の隅に捉えていた。
特定の相手も決めずに、いかにも楽しそうに、優雅に踊る姿。
それが、彼にはただ腹立たしかった。先程の問いもまた同様だ。
自分は、たった一人の想い人と踊ることすらできないのに。
何も知らないくせに、よくもそんなことを聞けたものだと。
八つ当りだとは理解している。分かっている。
しかし、それでも、そう思ってしまうことが、エドワードは情けなかった。
結局、何も出来ない自身が悪いのだということにも気が付いていた。
だからこそ、どうすることもできない思いは深みへと填まってゆく。
いっそ、苦しい程に。




しかし、そんなエドワードの心情には気付かずに。
いや、気が付いていたのかも知れないが。ロイは、小さな笑いを零す。
そしてゆっくりと、どこか自嘲気味に、告げた。



「……確かに、私と君は違うな」



色々と思うところが在るのだろう。それだけを言うと彼は静かに自らのグラスを傾ける。
そして、その先は何も云わなかった。
互いの思想に集中したのか。二人の間には自然と沈黙が広がる。
それが長い時間なのか、短い時間かは解らない。ただ時は流れていった。
その間に、室内楽団の奏でる曲は幾つか変化を見せた。
例えば明るい曲から、暖かい曲。テンポの早い曲から遅い曲へと。
そして、しばらくして一際ゆっくりな曲が空間に流れ出る。
恋人達が身を寄せ合って踊るための曲だった。
自然と甘やかな雰囲気が、部屋全体を包んでゆく。
しかし、壁に背を預ける二人の周りだけは、切り取られた空間の如く違っていた。
色で例えるならば薄紅色と漆黒の違いであろうか。
円舞曲など存在しないかのように、彼らの空間は静かなままである。
まるで時が止まったかの如く、動くものも無い。








「やはり、踊らないのか、君は」



そんな永劫とも感じられた沈黙を破ったのは、ロイの言葉だった。
しかし、エドワードは顔を上げず、そして問いに対する答えもまた、しなかった。
ただ、揺れる赤い水面をじっと見たまま、口を開く。



「………そう言うアンタは、どうなんだよ」



質問に、質問で返す。だがロイはそれに驚く様子は見せない。
ただ、口端を僅かに上げるのみだ。その余裕がまたエドワードの癇に触った。
彼があからさまに眉をしかめたのを確認して、男は答える。
今は、そんな気分ではないのだよと。そして、ゆるりとグラスを回す。
中の深紅の液体の薫りが、微かに辺りに広がった。
しかしそれは直ぐに辺りの空気に霧散していく。
だがそれを少しも気に留めること無く。そういえば、と漆黒で彩られた男は更に続けた。



「君は、いつも誰とも踊らないな。何故だ?」



淡々と、いかにも興味が無いかのように。男の低い声が響き渡る。
しかしその言葉は、エドワードの金色の瞳を見開かせるには十分であった。
自然と表情も険しいものとなる。
男の言葉が真実であったことに漠然とした恐怖を覚えたからか。
確かに、彼女と気持ちを交わしてからエドワードは誰とも踊ってはいない。
ドレスで飾られた華やかな花を抱えるより、素朴だが何よりも美しい素朴な花を想うほうがよかったからだ。
彼女を、裏切るような真似は職務とはいえ行いたくは無かった。
だがそんなことをロイが知っているとは思わない。
また、かといって話す気もまったく無かった。
だからこそエドワードは、直ぐに動揺とも呼べる自身の感情を正そうとする。隠そうと、する。
ロイがそんな自身を見ていたことには気が付かなかった。余裕が、無かったのだ。
細いグラスの柄を握る手に力を込める。そして、口を開こうとする。
アンタには、関係ないだろう、そう、告げようと。
しかし、その三度目になる言葉。
それは皮肉にもロイその人の言葉によって阻まれ、響くことは無かった。








「………誰か、特別の相手でもいるのか」




静かに。しかし確信めいた何かを持って告げられた言葉に、エドワードは今度こそはっきりと目を見開いた。
琥珀色の瞳が、揺れる。思わず、隣に立つ男をはっと見た。
するとロイの闇色の視線と交錯する。こちらの全てを見透かすかのような不敵な笑顔を、男は浮かべている。
それはエドワードにとって純粋な恐怖しかもたらさない。いっそ逃げ出したいほどに。
痛いくらいに、喉が乾いている。しかし、捉えられたかのように視線だけは外せなかった。
彼に許されたのはただ、考えを巡らせること、それだけである。
どうしてこの男は気付く。
いつも、人が一番触れて欲しくないことばかりに足を踏み入れるのか。
頭を過るのはそんな疑問ばかりだった。
何故、どうして、アンタは。しかしその問いは音に為らずに消えて往く。







若くして一代で財を成し、上流階級にその名を連ねるという成功を得たロイ・マスタング。
成り上がりと蔑まれながらもそれを歯牙にも掛けない男。
その存在が、実の所エドワードは基より得意ではなかった。
馬が合わない、といった方が正しいのかもしれない。とにかく、気に食わなかった。
それはこれから先も決して変らないだろう。
しかし、そういった感情とは別にして。
彼は、男の能力だけは評価していた。そこだけは、気に入っていた。
この国を変えてやろうという強い意志を、またそれに見合った力を、彼は持っていたからだ。
しかと未来を見据えるその烏色の相貌はいつでも自信に満ちている。
それは時代が変ろうとも、血統と権威だけに縋って生きようとする貴族連中の淀んだ瞳より遥かに好ましかった。
この男なら、本当に世界を引っ繰り返すかもしれないとさえ、どこかで思っていた。
期待、していた。
いや、実際はただ羨ましかったのかもしれない。
身分に縛られない、その姿が。
意志の力で、どうにもならない現実を覆えそうとするその存在が。




だからこそ、エドワードは恐れを抱く。
全てを見通すような漆黒の瞳に見つめられることを。
真実を突き付ける低い声を。
そう。ただ、恐かった。
お前には本当に、伝統を覆す覚悟があるのかと問うてくるようで、恐かった。
生半な決心では、彼女を手にすることは出来ないのだと宣告されているようで。
しかし同時に、それに対する反論もまた頭を過ぎるのだ。
ちゃんと覚悟はしている。なんとしても、彼女を幸せにしてみせる、と。
それは確かな意志だった。何物にも変えがたい、彼だけの強い願望と、決意だった。
こくり、と喉を鳴らす。
面白そうに反応を待つ視線を払って、グラスの液体を、未だ残る恐怖心と共に一気に飲み下す。 乾いた喉に、僅かな刺激を伴ってそれは落ちて行った。


壁に預けた背中を起こして、エドワードは、口を開く。
琥珀色の瞳で、ロイを真っすぐと睨み上げた。



「…………アンタ、には」

「関係ない、か?」



面白そうに遮られたその言葉は、エドワードの言葉の続きを確かに言い当てていた。
思わずはっとした彼の様子を見て、ロイは小さく笑う。君は解り易いな、とも続けた。
エドワードは、そんなロイをもう一度、敵意を向けた瞳で睨み付けると、背を向ける。
やはり、どうしてもこの男のことが彼は苦手だった。
いや、気に食わなかった。何もかも、だ。







一人残された男は、それでもまだエドワードを見つめていた。
しかし彼は去って行く背中にもう声を掛けることはしなかった。
ただ、微かに笑いを零すと、手にしたグラスを傾ける。潤った喉で呟く。



「――――正直だな。相変わらず」



小さなそれはしかし、部屋中に響き渡る円舞曲にかき消され、誰の耳に届くことも無かった。





















簡素な机の上に置かれたランプは、同じく簡素なベットを照らしだしていた。
淡い光と濃い闇の対比。その狭間に、ウィンリィは腰を掛けていた。
そろそろ就寝の時間である。部屋の小さな窓からは見えるのはただ、闇だ。 しかし、まだ彼女は仕事着である黒いワンピースに袖を通したままであった。
隣のベットの娘は、既に眠りの世界へと旅立っている。
ちらり、その幸せそうな寝顔を見て。
あぁ、そろそろ自分も着替えなければと彼女は思った。
しかし、体はうまく動いてはくれない。とすり、と半身を倒す。
長い薄金色がふわりと白いシーツに広がった。
しかし心は休まらない。瞳を閉じて思う。変だ、と。


今までどんなに疲れていても、着替えるのが億劫になることは無かったのに。
こんな、なんとも云えない感情に支配されたことなど無かったのに。
はぁ、と知らずに彼女は息を吐いた。
何か漠然としたもの、例えば黒く、重いものが心に溜まるような心地がする。
不安では、ない。
閉じた目蓋に映った彼の笑顔が、そんなものなど吹き飛ばしてくれるから。
では、いったい。いったい、これは何なのだろう。





彼女は、考えを巡らせてみる。自分自身に、問いを重ねてみる。
しかし答えは出なかった。
何なのだろうという疑問は謎のまま。だが、体は疲れていたらしい。
だんだんと眠気がウィンリィを襲う。
着替えなければ。ランプを消さなければ。
そんな義務感はあったが、あまりに強い睡魔にウィンリィはそのまま意識を手放してゆく。


だが、無機質な音―――来訪者が扉を叩くそれが、彼女を完璧に意識を失うことを許しはしなかった。










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