<ワインと奇妙な月>





太陽が落ちると全てが闇の中へと墜ちてゆく。
それは自然の絶対法則というもので、そこから外れるものなどありはしない。
もちろん、世界随一の帝国、その都たる地といえどもまた同様だ。
夜も更けた町並みは不気味なほどに静かだ。
生きるものの気配などまるで感じさせはしない程に。
大通りに設置されてからまだ日の浅いガス灯。
その微かな光がぽつぽつと真下のみを照らしている。
しかしその輝きは逆に明と暗、光と闇を対比させ、互いを浮き上がらせる効果を持っていた。
どこまでも広がる深遠の闇。おぼろげなガス灯の燈。
黒と白の鮮烈なまでのコントラスト。
だが結局のところそれらは表層的なものに過ぎない。
一度、建物の中。例えば貴族の館に足を踏み入れれば永劫の闇など、やわらかな光など、単なるまやかしであることが分かるだろう。
そう、社交という名で開かれる晩餐会や舞踏会である。


天井に吊された硝子製のシャンデリアから溢れんばかりに落ちる輝き。
それは人工的な真昼を作り出していた。
その下では上等の酒の放つ独特の匂いが漂っている。
路地に生きる子供など生涯口にすることもないような食事の数々が湯気を立てている。
そして、それらの周り。厚いカーペットの上には、艶やかな衣裳を纏った上流階級の人間が居てたわいもない会話に花を咲かせていた。
そこでは外に広がる闇など、ぽつんとした光など、気に留める者は無い。
誰もが、この輝ける世界こそが世界の全てであると信じていた。



それこそが、まやかしであるなどと気付くこと無く。











とある貴族の邸宅。
一人娘の誕生祝いと称された晩餐会は何時の間にか舞踏会へと姿を変えていた。
おそらく、娘の婿探しといった目的もあったのだろう。
しかし、そのようなこと招待を受けた皆はとうの昔に感付いたことである。
そのため、疑問を口にするものは無かった。
家付きの楽団が奏でる緩やかなワルツに合わせ、紳士淑女はステップを踏む。
当の娘も、どこぞの貴族と楽しげに舞っていた。
そんな光景を視界の端に捉えつつ、黒いスーツに身を包んだ青年は壁に背を預けていた。
エドワードである。


ため息一つ、ゆるりと手にした深紅に満たされたグラスを傾ける姿は、目立たない所にいるとはいえなかなかに人目を引くものだ。
だが当の本人は絡み付くような視線などまったく気に掛けなかった。
気付いたとしても無視を、決め込んだ。
いや、正確には自身が立つこの場になどまるで興味が無かった。
彼はただ思案を巡らせていたのだ。
かの家の主人には、娘には既に挨拶は済ませてある。
つまり貴族としての役目はもはや完了していた。
だから、彼のその思案の種は自身の職務に対することではない。
いや、しかしそれは寧ろ彼の責務と言えるのかもしれない。
彼女の笑顔に答えるため、の。
つまりは、どうしたら認めてもらえるのか。それだけであった。




しかし煌びやかな空間は考え事をするにはまったくもってよい環境とは言い難い。
あの、晩餐会や舞踏会には出無精と専ら噂のエルリックの次期当主がこの場にいる。
それは、他の貴族達にとっては中々に魅力的らしい。
エドワードは、幾度となく彼らに呼び掛けられた。
最初のうちはそれに律儀にも答えていた彼だが、段々と欝陶しくなった。
自身の利益を高めるための媚や世辞などもう聞きたくもなかった。
しかし、それはまだましだ。
舞踏会が始まってからの父親を介してのダンスの申し込みに比べたら。
結局、壁際にエドワードは立つことにした。
そして、人が近寄れぬような気配を纏うことにしたのである。








ある種、そこだけ切り取られた空間で思考を続けながら。
時折エドワードは手にしたグラスを見た。
ゆらりと揺るぐ紅い水面は彼の心中を映し出すようであった。
不安と、困惑、決意。
その全ての感情を混ぜ合わせたらきっとこの液体のような色になるだろう。
眼を附して息を吐く。
思考の迷宮の出口の光はとても射してきそうに無い。
彼は、足元からはい上がる恐怖にも似た感情を払うかのように。
また、グラスを口に運ぼうとする。


と、その時、硝子に囲まれた真紅がそれまでよりも闇めいた色に染まった気が、した。
誰かが、自身と光源の間を隔てていると気付いたエドワードが顔を上げたのは丁度、闇が濃くなってから一呼吸の後である。
すると、確かに彼の世界への侵入者は存在していた。









「こんな処で、何をしているのかね?」









エドワードは思わず顔を歪めた。
鷹揚に、勿体付けたように話すその口調にも、低く響くその声にも覚えがある。
さらに言えば、その烏のような髪の色も。整った実年齢より若く見えるその顔もよく、だ。



「………別に」



抑揚も付けずに、エドワードは答えた。
そして不遜に付け加える。アンタには関係ないだろう、ロイ・マスタング。
それから、睨むような不躾な視線を侵入者にやった。しかしこのロイと呼ばれた男がそれに臆する様子など微塵にも見られなかった。
寧ろそんなエドワードの態度を面白がるかのようにわざとらしく肩を竦めた。
そして微笑を洩らし、言う。相変わらずつれないね、君は。
それから彼の隣へと歩を進め、同じように壁に背を預けた。
エドワードはというと、よく悪いと窘められる目付きをさらに険しいものにさせる。
しかし、彼の琥珀の瞳はロイの動きを追うことはしなかった。
再び、手元のグラスへと視線を戻す。
中の紅いワインは、ゆらゆらと揺れたままだ。
それが少し気持ち悪くて、エドワードが視線を上げたのとロイが口を開いたのはほぼ同時だった。



「踊らないのか、君は」
























やわらかな明かりで照らされた清楚な部屋。そこで彼女はぼんやりと空を眺めていた。
昨今は利便性を求めてガスランプを使う貴族が多い中、この部屋の光源は主である彼女の意向で今だに蝋燭に頼ったものであった。
そのため、部屋が完璧たる光に包まれることはない。
かといってまったくの暗闇に染まることもない。
そんな控えめな蝋の光が、彼女は好きだった。何故かは、わからない。理由など何もない。
ああ、もしかしたら。彼女は、はたと思う。
濃い群青に染まる空が、そこに浮かぶ遠い存在がよく見えるから、なのかもしれないと。
優しい薄闇は、月や星の輝きをひどく際立たせるものであるから、と。
しかし、残念なことに彼女が見上げる空。そこに星々の姿を見かけることは無かった。
天球は薄い灰色の雲に覆われている。明日は雨でも降るのだろうか。
かろうじて月が見えるだけである。
だが、その月といっても満月からは幾日か過ぎた後のひどく不恰好なものであった。
今日は、およそ観賞するには相応しくない空と言える。しかし彼女はただ見上げていた。
それでも、見上げていた。







実際の所、彼女にとって今日の夜空などなんの意味を持つものではなかった。
意識も、そこには無かった。それならば何故、そのようなことを。
しかし彼女自身は、この無意味な行動の理由が嫌になる程分かっていた。


―――――――トリシャ。


不意に甦る、夫である者が名を呼ぶ声。
それから逃れるための、意識を散らすための行動、なのだと。
それでも、記憶は確実にそれから続く言葉を、静かに響いた声をしなやかに呼び起こす。
君に頼みたいことがある、と。








それは、昨夜。上の息子と夫が会見をした後の出来事だった。
そもそも、この言い争いの根本たる要因は彼女にとってはただ衝撃であった。
何故、どうして。貴方と、使用人が。いつから。
そんな問いばかりがトリシャの中を巡った。
それは一晩経た今も同様で、寧ろ逆に疑問も憤りも混乱も増すばかりである。
しかし彼女がそんな思巡の混沌に浸ることは許されなかった。
息子の宣戦布告めいた告白を聞いた夫は、確かに衝撃を受けていた。
だが、自身がどうするのかの決断はひどく素早いものであった。
いっそ恐ろしく、残酷なまでに。
夫の、彼女への頼みごとはたった一つ。
しかしそれは彼女を驚愕させるには十分すぎたのだ。




トリシャは、空を見つめた態勢のままでゆっくりと瞳を瞑る。
閉じた瞳には、不完全な黄色の球が焼け付くように浮かんでいる。
彼女には分かっていた。全て。そう、全てが。



例えば息子が、誰とそんな関係にあるのかということ。
彼は肝心の相手の名など口にしなかった。
しかし、近しい使用人など、ハウスメイドなど一人しかいない。
まして恋愛関係を築くとなれば、尚更。かの娘以外には考えれない。
あの優しい陽だまりのような娘以外には。



そして、知っている。夫の要求に答えるのが最良の道であることなど。
そうすることが彼らにとっても一番の法であることなど。
自身の決断が遅くなればなる程彼らの苦しみは増えるだけということすら、悟っている。
どうにもならないことをどうにかしようとすることは、必ず歪みを産む。
そこまで理解していて、ならば何故に、迷う必要があるのだろうか。トリシャは思う。
これ程までに胸を痛める必要があるのか。
いや、そもそも何故胸が痛む?
罪悪感か。それとも、後ろめたさか。
そんなもの、結局は自己満足の感情に過ぎないだろうに。



(そう、これは正しいこと。私が割り切れないのはただ弱さの、所為なのだ)











きゅ、とトリシャは部屋着の長いガウンの袖を握り締めた。
直ぐにそこにはくしゃりと不規則な皺がよる。
しかし、上質な絹で厚く織り込まれたこの上着は、手に込めた力を抜くと皺などまるで存在しなかったかのように真っすぐな状態に戻るのだ。
所詮、自らを慰める罪悪感などこれと同じ。
直ぐに、消え往くもの。


そっと瞳を開けると、トリシャは近くの机に置かれた呼び鈴に手を掛けた。
そして間も無くやってきた侍女に、告げる。



「………呼んできてほしい子が、いるのだけれど」



静かに、しかしひどく切実にも聞こえる彼女の声。
それが響く部屋には歪な月の光が差し込んでいる。
蝋燭の明かりと共にそれはトリシャの羽織ったガウンの皺、彼女が握り締めた跡を鮮明に照らしだしていた。










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