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<二人きりのお茶会>
安穏とした、しかし心地よいとはいえない眠りからエドワードが覚めた時。
太陽は既に天頂から少しばかり傾いた位置にあった。
体を横たえた体勢のまま彼は幾度か瞬きをする。
ぼやけた瞳に映るのは薄暗い自室だけだ。
いったいどれほど寝ていたのだろう。
額にかかる前髪を欝陶しそうに払いながら、彼は寝台の傍の棚に備え付けられた置き時計に視線を送った。針は、二時と少しを指している。
顔をしかめて彼は体を起こした。今日は夕方から、どうしても仕事上の付き合いの面から外せない晩餐会がある。これ以上、惰眠を貪っている暇はない。
大きく息を吐いて、彼は身仕度を始めた。部屋着とはいえ上質な生地で仕立てられたスーツに身を包んで、愛用の銀の懐中時計をポケットにねじ込む。
とりあえず、出かけるまではこのようなラフな格好でも咎められることはないだろう。
長い髪を一つにきちんとまとめ直すと、ともすれば後ろ向きになりそうな思考を払うように一度頭を振る。それからエドワードは部屋を後にした。
時計の鎖が、歩を進めるたびに小さな音を立てる。
眼光鋭い彼の、向かおうとする先は図書室だった。
その理由は、第一に晩餐会までの時間を潰すためというのがある。
そしてもう一つ、好きな本に囲まれていたら、彼女とのことで何か妙案が思いつくかもしれないと考えたためである。そしてなにより、睡眠をとったとはいえとても冷静ではない自身を落ち着かせたかったからというのが強い。
しかし、彼の思惑通りに事は進まなかった。
談話室の前、そこを通りかかった時エドワードは呼び止められたからだ。
「兄さん」
彼を呼んだ声は、談話室のソファーにゆるりと身を預け、皮表紙の本を読んでいる青年のものだった。エドワードと同じようにシンプルな格好に身を包んでいるが、しかしそれは彼の滲み出るような高貴さを隠す効力などまるでなかった。
それだけ、この青年は特別ということになる。いや、実際特別な存在であった。
彼は、大貴族エルリック家の一員であり、エドワードにとっては唯一の弟。
名を、アルフォンスという。
彼は、足を止められたことで憮然とした兄を見て困ったように笑いながら、告げた。
「あのさ、今からお茶飲むんだけど。よかったら一緒にどう?」
あまりに呑気な様子の弟に呆れたようにため息を吐く。
少しばかり、いらつきさえ覚えた。人の気も知らないで。
しかし弟にその感情をぶつける権利も理由もないことを彼はよくわかっている。
なので、そんな気にはならないとエドワードは言葉を返そうとした。
しかしはたと思い直す。落ち着かなければ冷静な思考などできないのではないか、と。
何より、昨日の夜以来食事を摂っていないためか小腹が減っている。
茶の一つでも口にして、心を沈ませなければ。
結局、おぅ、と小さく答え、エドワードは談話室へと足を向けた。
ふかふかとした猫足の、上等なソファーは座り心地がよいものだ。
思わずエドワードはふぅ、と息を吐く。
「どうしたの?」
すると向かいに座るアルフォンスが問う声が聞こえた。
自然と下げていた頭を上げて彼を見る。
すると、肝心の弟はエドワードのことなど見てはいなかった。
その視線は、手元にある本に向けられている。彼が関心を持つという法律の、本だろうか。
「……別に」
エドワードは視線をまた戻して、答えた。
それはあからさまな嘘であったが、真実を告げる必要はないのだ。
その静かな言葉に、一度顔を上げたもののアルフォンスはそう、と答えたきり押し黙った。
きっと、この聡明すぎる弟にはエドワードが何で悩んでいるのか、どうして沈んでいるのかなどお見通しなのだろう。だから、兄弟の間に会話は無い。
だがそれは二人にとって不快なものではなかった。
静寂が空間を支配している。
響くのは、アルフォンスのページを繰る音と備え付きの置き時計が時を刻む音のみだ。
その二つは逆に、静けさを強調させていた。
しかし時が止まることの無いように静寂というのは破られるものである。
「失礼します」
お茶を、お持ちいたしましたと告げる明るい声が、談話室に響き渡った。
その、覚えがありすぎる娘の声に兄弟は二人とも顔を上げる。
開かれたままの談話室の扉の前に、その声の主はいた。
ぺこりと頭を下げた後、自らの主人たる青年達に笑顔を向けるハウスメイド。
それはウィンリィであった。
エドワードが居ることに少しばかり驚きを浮かべた彼女ではあるが、すぐにそれを正して入室の許可を求める。思わず茫然としてしまった兄の代わりに、アルフォンスがそれを出した。
ウィンリィはそれを確認すると、再び失礼しますと言った後。
茶器などを乗せたワゴンを押しながらゆっくりと彼らの元へと近づいてきた。
かちり、かちりと微かな音を立てながら、彼女は紅茶を入れてゆく。
細やかな柄が描かれたティーポットに高温の湯を注いで、茶が出るまでの時間にスコーンやジャムなどの軽食を整える。その手際は実に鮮やかなものだった。
エドワードはなんともなしに、無意識にそんな彼女を視界の端に捉えていた。
やがて、温かな湯気と共に琥珀色の液体が、ティーポットから揃いの二つのカップへと注がれる。途端に、ふわりとしたよい香が辺りに広がった。
白いカップには、おそらく素晴らしい味であろう紅茶が満たされている。
その出来に満足したのか、ウィンリィは微かに笑顔を浮かべた。
それで、エドワードは我に返る。何をしているのだ、オレは。
自身を心中で嗜めた。それから、誤魔化すように彼女から視線を外す。
しかし、肝心の彼女は幸いなことにそれには気が付きはしなかった。
手にした紅茶を、どうぞとアルフォンスに差し出している。
ありがとうという彼の礼に、笑顔で答えてから彼女はもう一つのカップを手に取った。
そして、今度はエドワードへと向き直る。
「エドワード様、どうぞ」
そういって、彼女はにっこりと笑った。それは実に純粋たる笑顔。
例えば、親愛なる友に向けるかのようなもの。
アルフォンスの前ということもあるためある種、当然だ。
だからこそエドワードもこれといった感情は込めずに礼を言い、カップを受け取る。
それはもはや日常的な光景だった。そう演じることは彼らにとって、慣習に過ぎなかった。
しかし、今日はいつもとは少しだけ違っていた。
すまない、そう答えたエドワードに対してウィンリィが一瞬、向けた笑顔。
それは、まるで砂糖菓子が甘やかに溶けるようなもの。
主人に、はたまた友人に向けた笑顔でも無かった。
ただ、ただやわらかくて優しい好意だけが込められたものだった。
それに気が付かないエドワードでは無い。思わず彼女を見やる。
しかし、それを振り解くかのように。主人達に茶を出すという職務を終えたウィンリィは、それではこれで、と踵を返した。扉の前で再び頭を下げる。
そして、そのまま扉を閉じて部屋を後にしたのである。
エドワードは、何ともいえないような感情のまま。
知らずに赤くなった顔もそのままに扉をじっと見ていた。
そんな自身を、複雑そうにアルフォンスが見ていたことにも気が付かなかった。
我に返ったエドワードは、ゆっくりと入れたての紅茶を啜る。
熱い液体が、体に染みてゆく。美味い、と思った。
彼の向かいに座るアルフォンスもまた同様に、手にしたカップに口をつける。
二人の間に、会話はやはり無かった。
このまま曖昧な午後が、淡々と続いていくかと思われたその時。
アルフォンスが、手にしたカップを机へと置いた。カチャリ、と音がする。
それから、彼は口を開いた。ねぇ、兄さん。躊躇いがちに。
エドワードは、昨日から続く思考を止めて顔を上げる。
何だ。そして、弟の言葉を待った。
「あのさ、兄さん。ボクはね、ボクは、兄さんには幸せになって欲しいって思ってるよ」
エドワードは不審さに眉を寄せた。弟の、脈絡もない言葉の意味が分からなかったのだ。
しかし、アルフォンスの真摯たるその視線から彼がこれから告げようとしていることが、生半ならないことだとは理解できる。
だから、口を挟む事無く言葉の続きをただ待った。
アルフォンスの唇が、ゆっくりと再び動きだす。
「だけど、ボクは兄さんを……その、兄さんの、望みを。応援することはできない」
どうしても、それだけはできないんだ。アルフォンスはそう続けた。
そこでエドワードははっとする。弟が言わんとすることに思い当たったからだ。
隠してきたつもりではあった。彼女との関係は、昨日両親に告げるまで誰にも言わなかった。
しかし、自身のことも、彼女のこともよく知っているアルフォンスだ。
だからこそ、彼は分かっていたのだろう。エドワードは、俯く。
ゆらりと、手にしたカップの水面が揺れた。
アルフォンスは、静かに言葉を重ねる。
「……彼女が、すばらしい人だって分かってるよ。幸せになって欲しいっても、思ってる。
だけど、やっぱり、二人のことあんまり応援はできない、から」
それきり、アルフォンスは黙ったままの兄から視線を外した。
かちかちと、時計の音だけが部屋に響く。紅茶の香が、辺りに広がっている。
沈黙に耐え切れず、アルフォンスが口を開いた。
「……兄さ」
「分かってる」
しかし静かな、それでも低く響く声が、アルフォンスの言葉を遮る。
彼の眼差しと交錯するは、金色の視線。
それはいっそ痛いほど、狂おしいほど強烈な光を宿していた。恐怖さえ、感じるほどに。
アルフォンスは、思わず息を飲む。こくりと一度、喉を鳴らした。
しかし彼を黙らせた存在は、エドワードはそんなことを気にする様子も見せずに言葉を続けた。
「分かってる。………お前に、迷惑は、かけない。絶対に」
絶対に。もう一度エドワードは同じことを繰り返した。
自然と俯いた頭に思考が巡る。
弟の気持ちはよく理解できるものだ。
貴族である自分と、ハウスメイドの彼女の結婚などそうそう認められるものではないから。
貴族として育ったアルフォンスにも、やはり抵抗があるのだろう。
両親が反対していることに賛成も出来ないのもある。
それに、それにもう一つ。弟は心配しているのだろう。駈け落ちでもするのではないかと。
しかしエドワードにその気はまったく無かった。
万が一そんなことをしたら、次期当主の座は自然とアルフォンスの元へと行ってしまう。
そうなってしまったら、弟の夢は。
大学に進学して、法律の勉強をしたいという夢が叶えられなくなってしまう。
それだけは、避けなければならない。
アルフォンスが、進学のために並々ならぬ努力をしているのを知っている。
そんな彼を自分の我儘に巻き込むわけにはいかないことも分かっている。
彼女も、そんなこと望んでなどいないだろう。
だからこそ、こうして悩んでいる。
どうにもならないようなことを、それでもどうにかしようとして。
彼女との約束を守りながら、弟の夢を守るために。
エドワードは、手にしたカップに口を付ける。
それから、心に溜まる不安を押し込めるかのようにすっかり冷め切った琥珀色の液体を一気に飲み下した。そして、一息つくと勢い良く立ち上がる。扉の方へと足を向けた。
兄に威圧されていた弟は、そこでようやくはっとして身を乗り出す。
「……兄さんっ。あの、ボクは」
「心配するな」
振り返ることもせずに告げられた声が、二人だけの談話室に響き渡る。
それから。なっ、と顔だけを弟に向けてエドワードは笑った。
それはひどく単純な笑顔。しかし、これ以上の言葉を拒絶するだけの力を持っていた。
そして、そのままエドワードは談話室から去っていった。
一人残されたアルフォンスは、茫然と兄が消えた扉の方を見ていた。
だが、しばらくしてどさりと気が抜けたかのように腰をソファーへと再び沈める。
頭に巡るは、先程の兄の笑顔。
彼には、それに嫌になるくらい覚えがあった。
あれは、兄が何かに耐えているときのものだと。
心配するアルフォンスを、心配させないように作る笑顔だと。
「……ごめん………」
アルフォンスは呟く。静かに、小さく。
わかっているのだ。兄が、どうしようもなく優しい人というくらい。
彼女が、どんなにか暖かい人ということくらい。
嗚呼、だけど、それでも。
「……ごめんなさい……」
一人しかいない談話室に響く謝罪は、誰に届く事も無く消えてゆく。
机に置かれたままの紅茶は、もう湯気を立ててはいなかった。
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