<この不愉快な感情>














薄いレースのカーテンの隙間からは、鮮やかな日光が降り注いでいた。
また僅かに開かれた窓からは、涼しい風が流れ込み、それは部屋一面に広がる紅茶の匂いと混じりあって独特の空気を作り出している。
春も過ぎた今、熱いお茶は本来ならば少し不釣り合いかもしれない。
しかし、吹き抜ける風はその熱さを飲み込んで、それを口にする者に適度な心地よさを提供していた。



季節は夏の初め。



今、帝都は社交期のただ中にあった。










カップを手に、青年は大きく呼吸を一つした。
立ち上ってくる匂いを楽しむためだ。それからゆっくりと口を付ける。
体一杯に広がる香りと味は、彼が好きなダージリンのそれだった。中々に旨い。
満足して、思わずふぅと息をつく。
そして伺うように向かいの長椅子に座る人物を見た。
何かの書類に目を通しながら、紅茶を啜るその顔は、無表情だった。
せっかく一緒にお茶を飲んでいるのに。
向かいに座る者の存在など気に掛けていないように見える。
まるで、そこだけ世界が異なるような、違う時の流れの中にいるような。
淋しさや孤独感とは異なる、その違和感が、青年は嫌だった。
その不快感を誤魔化すように、また一口紅茶を啜る。
だが、胸の辺りに溜まる気持ち悪さは一向に溶けることも、落ちてゆく気配も無かった。
カップを置くと、彼は手にした皮表紙の本を開いて読み始める。
だが、普段は興味深いはずのそれは、今は単なる文字の羅列としか思えなかった。
頭に、少しも入ってこない。
考えるのは、別のことだ。







青年は、今度は、意識だけを向かいの人物に向ける。
普段は明るいこの人が、こうなった原因についてはよく理解していた。
そしてそのことで、ひどく傷ついていることも。ひどく憤っているとも。
だが、それはどうしようもないことだとも分かっている。
寧ろ、それを聞いて。彼はどこか安心した所もあったのだ。
だが、こうして覇気の無い姿を見るたびに、これでよかったのかと疑問を覚える。
殆ど睡眠を取らずに仕事を終わらせて。
思いつめたように、街へと彼女を捜しに行く後ろ姿を見つける度に、思うのだ。
本当に、これでよいのかと。
しかし、それを口に出すことは出来なかった。
また、その資格も無かった。
当主である父の決断に逆らうことは無意味であり、第一、自分は確かに言ったのだ。
その望みを応援することは出来ないと。
しかし心と言うものは勝手なもので。
事実や理解、常識とは逆の感情を抱かずにはいられないのが本音であった。





そう、本当に、これでいいのかと。







だが、自らの言葉を撤回する気は彼には無かった。
それはまったくと言って無かったのだ。
自分の考えや行動は正しいと自負している。
彼の望みが、常識的には考えられないことだともはっきり思う。
だが、こうして同じ空間にいると、色々考えてしまうのだ。
それは罪悪感からくるものか。いや、そうではないだろう。
自分は悪いことはしていないのだから。
それなら、この感情は何と呼べば良いのか。








青年はもう少し紅茶を飲もうと再びカップを手にする。
と、その時。紅茶を飲み終わったらしい。
向かいに座る彼の人が立ち上がった。




「もう、いいの?」




視線を向けずに問う。



「ああ。これから外、出なきゃいけないし」

「そっか」



会話はそれで終わった。
彼は顔を上げて、足早に部屋を去ろうとする背中を見る。
ここ二ヶ月。正確には、あのハウスメイドが屋敷を去ってから。
彼の仕事の量は以前より明らかに増えていた。父の意図によるものだ。
それは仕事で気を紛らわせてやろうという情けからか。
それとも余計なことをしないようにとの戒めなのか。
それは分からなかった。
そのどちらにせよ、見送る青年に出来るのはただ一つ。



「兄さん」



呼び掛ける。扉に手を掛けた兄が、こちらを向いた。



「仕事、頑張ってね」



笑って告げる。
兄は、同じような笑顔を浮かべてみせた。
それが痛々しく見えるのは、きっと錯覚だろう。



「……おう」



お前も勉強頑張れ。
そう続けると、彼は部屋を後にした。
残されたのは、いつかと同じで青年一人だった。






彼は、アルフォンスは、紅茶をまた口にする。
いつの間にかぬるくなってしまったそれはもう、少しも旨く無い。

















身仕度を整えて、エドワードが馬車に乗り込んだ時。
太陽は空の頂点からやや傾いた位置にあった。
空は抜けるようで、白い雲は点々とその青の中に浮かんでいる。
こんなに晴れるのは、曇りや雨、あるいは霧に包まれることの多い帝都においては少ないことだった。
夏が段々と近づいている証拠なのだろうか。
珍しいものだと思いながら、彼は馬車の窓から、空を視線だけで仰いだ。
体は、背もたれに預けたままだ。
久しぶりに見る青空はきらきらと輝いている。
それは流れてゆく町並みも同じことで、どことなく明るく見えたりもする。
だが、昨日も夜遅くまで書類を睨んでいた体に陽光は眩し過ぎたようだ。
エドワードは視線を戻すと、ゆっくりと目を瞑った。




最近、無理が続いている。
先程、弟も心配そうにこちらを見ていたから、きっと顔にもそれが出ているのだろう。
まったく情けない。彼は、思わず顔を歪める。
最近感じていた疲労感はどうやら気のせいではないようだ。
体が怠い。目蓋が、ひどく重かった。
がたがたと地を蹴る蹄の音も、それに伴う振動も、まるで気にならない程に。
だが現実として、そのまま夢を見ることは出来なかった。
眠れなかったのである。体は重くて仕方がないのに、頭は妙に冴えているのだ。
理由はよく知れない。寝不足からくる昂揚、とでも言えば良いのだろうか。
体と頭が乖離しているような心地がした。
それが、少し気持ちが悪いと言えば、悪い。
この気持ち悪さを、エドワードは最近よく感じていた。
例えばこうして馬車に揺られた時に。
或いは、徹夜をした後で、やっと寝台に身を預けた時に。
それは、彼を思考の淵へと投げ入れる入り口だった。
そう、頭は動き続ける。
睡眠を脳が求めるまで、昂揚感が過ぎ去るまで。
ぐるぐるとさまざまな思考は巡り続けるのだ。
そして、その大抵は二ヵ月前の出来事に結びついて行く。
エドワード自身が意識しなくても、なかば当然のように、思考は繋がってしまう。





こうして街に出た時は特にそうだ。どうしてもやめられないのだ。
どうしてあの時こうしなかったのだろうという後悔を。
愚かとしか言えない自らに対する叱責と軽蔑を。
そして、疑問を感じずにはいられなかった。
それはあの雨の日に、自らの内側から問われたことだ。
彼女を見つけた所で、どうするのか。
傷つけるだけではないのか。
第一、彼女はそれを望むのだろうか。
望んでくれているのか。



その答えは、今だに見つからない。

二ヵ月考えても、考え続けても、何も見つからないのだ。









彼女に、会いたかった。見つけたかった。
だが、彼女がそれを喜んでくれるかは分からない。
もし、彼女が望んでいないのなら、こうしていることは。
捜そうとすることは、全てが余計なことではないのか。
何も言わずに屋敷を去ったのは。
見つけてほしくないという何よりの証拠ではないだろうか。





彼はそうではないと思いたかった。
そんなことはないと、信じたかった。
だからこそ、仕事を無理して終わらせて、時間を作り出して。
都中を捜し回る行為を繰り返している。
都を去ってしまった可能性も考えて、駅構内を聞き回ったことも一度では済まされない。
しかし、実際はどうだろう。
そうと言い切ることは出来ないのが真実ではないか。
その自信が、持てないのが現実ではないか。
それでも、彼女を見つけることを。
もう一度この手で抱き締めることを。
全てを、諦めることが出来ない。
そんなことどうして、出来るのか。




分かっている。それは単なる我儘と。
気付いている。愚かな傲慢さと。
だが、諦められない、それだけは確かな感情だった。
唯一自信が持てる気持ちだった。
もうそれだけ、という方が正しいのか。









徐々に振動を小さくして、馬車は、あるサロンの前でその動きを止めた。
従者が到着しましたと告げる声が、エドワードの耳に届く。
彼は閉じていた瞳を開けた。
飛び込んでくる光は寝不足だからという理由だけではなく、眩しかった。
思考と体の怠さを払うために、頭を一度振る。
それから上着のポケットから懐中時計を出して見ると、針は一時前を指していた。
約束の時間は一時であるから、丁度良い頃合いだ。
今日はこの後にも約束がある。なるべく、円滑に進めばいいのだが。
この会談は、本来エドワードの仕事の領域ではない。
この所、急に増えた仕事で、父が急にやれと言ってきたもの、つまりは嫌味だ。
きっと一筋縄ではいかないだろう。
だが、父が指示してきた仕事は絶対にきちんとやってやる、と決意していた。
どんなに精神的に肉体的に辛くても、やりとげなくてはいけなかった。
決して屈したりは、出来なかった。
それはもう、意地の問題なのかもしれない。
あの男に負けてたまるものか、と。


(仕事も、あいつのことも、何もかも全て)










エドワードは帽子を被ると、従者が開けた扉から通りへと降り立った。
空は相変わらず澄み切って、太陽はその光を惜しみなく大地に注いでいる。
だが、頬を撫でる風は、少しだけ冷たい。
彼は頭からそれまでの思考を払い、代わりこれからの仕事についてを考え始めた。

























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