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<静かな雨>
昼下がり。
暗い色をした雲が広がっている。太陽の光は殆ど零れていない。
春過ぎとはいえ気温は低く、肌寒さを覚える空気は湿気を帯びて、重い。
いまにも泣きだしそうな、そんな表情を空は見せていた。
磨いていた鏡から手を離して、確かめるようにウィンリィはそれを見た。
部屋の一角に設置された鏡は、曇りなく部屋と彼女の顔を映し出している。
そのことに満足をして、彼女はくるりと向きを変えた。
磨き布をエプロンのポケットに入れて、作業道具が入った箱から毛の固いブラシと、ワックスを取り出す。
暖炉の縁飾りを磨き上げるためだ。
もうここに火を入れるような季節では無いが、毎日の手入れは欠かせない。
ウィンリィは跪くと懸命にブラシを動かし始めた。
丁寧に、美しく輝くようにしっかりとだ。だが、ゆっくりとはしてられない。
なるべく手早く行う必要もあった。
この後にも、沢山やらなければいけないことがあるのだ。
もともとハウスメイドの仕事は多い。
沢山の使用人がいた前の屋敷でさえ、忙しく働いてやっと一日の仕事が終わるといった具合であった。
それは人手が足りないこの屋敷では、尚更のことである。
主人はまだ独り身なので、家族の世話がない分だけ仕事は少ないのかもしれないが、屋敷は広い。
部屋数も、相当だった。 結果的に、使用人一人一人の仕事量が多くなる。
その中にはウィンリィがやったことがないような事も沢山あった。
だが、だからといって出来ないとは言ってられない。
やれない、ではなくやらなければいけないのだ。
この屋敷に来て三日。
慣れてるとはまだ言い難いが、とにかく頑張るしかない。それだけだ。
暖炉飾りを磨き上げて確認を終えると、作業道具入れを抱えてウィンリィは部屋を後にした。
これで担当分の掃除は終わった。次はベッドを整えなければならない。
出来をメイド長に確認してもらう必要もある。ともかく、やることは多いのだ。
慣れない仕事だからという理由もあるが、目が回りそうだった。
しかしとりあえず今、やらなければいけないのは、道具入れを所定の場所に戻すことだ。
広い屋敷の、端の辺りにある道具置場までは遠い。
足早に彼女は廊下を歩いていった。
ウィンリィが道具置場である小部屋の扉を開くと、そこには先客の姿があった。
彼女に気が付くと、ワックスを棚に戻していたメイド長は視線をこちらへと向けた。
「お、お疲れさまです」
「お疲れさま」
そうやって声をかけた後。
隣に並んで、自らも棚に道具箱を片付けながら、ウィンリィはどことなく体を強ばらせる。
ちらりと、横目でリザを見た。
てきぱきと手動かす彼女は、どうやらワックスや洗剤の在庫を調べているらしい。
時折、傍の低い棚の上に置いた紙に何かを記していた。
その顔は、鋭さを感じるほどに真剣なものだ。
だが、同時になんとも言えない美しさを人に覚えさせる。
よく磨かれた剣のような美しさ、といったら良いのだろうか。
少なくともウィンリィはそうだった。
三日前、初めて会った時、驚きを覚えたものだ。
メイド長という責任の重い立場でありながら、年がまだ若いこともその原因であったが、それ以上に、彼女の美貌に内心で息を吐いたのだ。
なんて綺麗な人なんだろうと。
もしメイド長がドレスを着たら、どこかの貴族の奥様に間違えるんじゃないか。
だが、彼女に感じるのはそんな感嘆だけではなかった。
同時にもう一つ覚えること、それは緊張だ。
近寄りがたいような、背筋が自然と伸びてしまうような。
それが少しだけ息苦しい。
視線を戻して片付けを続けながら、ウィンリィは少しだけ居心地の悪さを感じていた。
その時。
「掃除、終わったの?」
突然、かけられた言葉にウィンリィは少し慌てた。
もしかしたら見ていたことに気付かれたかもしれない。
だが、尋ねるリザの顔は怒っているようには見えなかった。
そのことに安心して、彼女は口を開く。
「あ、はいっ。終わりました!」
これからリネン室にシーツを取りに行く所です、と続ける。
「そう。……よかったわ」
「え?」
「仕事、もうかなり慣れたみたいで」
そう言って向けられた微笑は、やはり美しかった。
少しだけ恥ずかしいような気持ちになって、ウィンリィは呆然となる。
だが、すぐに我に返って口を開いた。
「……そうだったら、いいんですけど」
「自信がない?」
「あるとは、言えません。
まだ聞かなければ分からないことも多いし、どこにどの部屋があるとかもまだちゃんと覚えていないですから。
それに……」
「それに?」
「……皆さんに比べて、全然、出来てないですから」
言いながら、ウィンリィはひどく情けない気持ちになった。
思い出すのは数日前から見てきたこの屋敷の使用人達のことだ。
そして彼らが仕事をするその様子だった。
世間の普通よりも年若い彼らの能力は、しかし平均よりも高い。
誰もが与えられる仕事、そして求められる仕事をしっかりと、かつ素早くこなしているのだ。
それは彼女の能力に対する自信を完璧に吹き飛ばした。
彼らに比べたら、ウィンリィの力など大したことないと言い切れてしまう。
都外れの屋敷だから、新興地主の屋敷だからきっと大丈夫だろう。
そう、盲目的に信じていた自分が情けなく、叱責したかった。
特にメイド長として屋敷全ての雑務を取り仕切るリザの能力はただただ感嘆するしかない。
慣れないウィンリィに対して、簡単な説明しながら自らの仕事をこなし、また使用人を統括する業務もこなす彼女の実力はいったいどれだけのものか。
ウィンリィは思わず、自らが発した言葉に伏し目がちになってしまった。
「だから、全然、駄目です。もっと、頑張らないと……駄目なんです」
自らに言い聞かせるように言う。この屋敷で正式に働くためにも、と心の中で続けた。
そんな彼女に対して、少しばかりの沈黙の後、リザが発したのはウィンリィにとってはひどく意外な言葉だった。
「……あまり無理をしちゃ、駄目よ」
「へっ?」
思わず間の抜けた声を出してウィンリィは隣に並んで立つメイド長に顔を向ける。
リザがそれを気にする様子は見られなかった。
「まだ三日でしょう。そんなに気張らなくてもいいのよ」
「え……でも」
「大丈夫、貴女なら」
きっと大丈夫。
そう向けられた笑顔は、それまで見た彼女のどの顔よりも優しかった。
それにウィンリィは言葉を詰まらせてしまう。
見惚れてしまった、というのが正しいかもしれなかった。
そして、彼女の言葉の内容にも驚いてしまう。
それは嬉しさというよりは戸惑いといった方が近い。
それからリザは何も言わなかった。
結局何も返事が出来ずにいたその間に、ウィンリィの片付けは終わってしまった。
リネン室に向かうため、出口に向かう。
彼女がドアノブに手をかけ、リザに一言かけようと振り返る。
「あのっ、じゃあ、失礼します」
「えぇ。……また後でね、ウィンリィちゃん」
返ってきた言葉に、ウィンリィは一度思考を止めた。
その後で戸惑った。一瞬、聞き間違いかとも思う。
だが、そうとは考えられない。
そうだ、今、確かに。
確かに、名前の下に変な呼称が付いてはいなかっただろうか。
「えっ、あ……!?」
「どうかしたの?」
弾かれたように彼女はメイド長を見る。
すると、気付いたようにリザはまたにっこりと笑った。
「あ、私。人を呼び捨てで呼ぶのがあまり好きじゃないのよ」
「そ、そうなんですか…?」
「ええ。嫌?」
「い、いいえ。そんな訳じゃ!」
首を傾げて聞いてくるリザに、寧ろ照れ臭いですとウィンリィは言えなかった。
ただ、ぶんぶんと大げさに首を振るだけだ。
そんな彼女を満足気に見ると、リザはまた微笑を浮かべた。
ウィンリィは、また固まってしまったが、どうにか我に返る。
慌てて、失礼しますと告げ、今度こそ本当に部屋を後にした。
そんなウィンリィを目線だけで見送ると、リザはふぅと息を吐いた。
先程の自らの言動が、自身でも意外だと思ったからだ。だが直ぐに、苦笑を浮かべる。
本当に素直な子だ、そう思わずにはいられない。
だからこそあんな言葉が自らの口をついたのだろうか。
それとも仕事に慣れようと懸命な姿勢も好ましさを感じているのだろうか。
もしかしたら、その両方かもしれなかった。
そう、ウィンリィは一生懸命だった。
この三日間の姿を見ても、先程の言葉からもそれは十分に察することが出来る。
だが、ある意味必死過ぎるような、痛々しいような、そんな感じもリザは同時に覚えていた。
どこかしらの危うさがあるような。張り詰めすぎた糸の脆さのような、そんな感じが。
それは彼女に対して感じたあの疑問と何か関係があるのだろうか。
そんなことをふと考えてみる。
だが、考えてみて。直ぐにリザはそれを放棄した。
それは彼女には関係のないものだ。
主人にも話して、気に掛けることはないだろうと彼の人も結論づけた問題だった。
そう重要なのは、今、彼女が、ウィンリィに対して持っている純粋な感情ではないか。
そしてそこに、一切の疑いはないことではないか。
また一つリザは息を吐く。
それまでの思考一切を払うと、彼女は直ぐに作業へと没頭していった。
リネン室に続く廊下を歩きながら、ウィンリィは動揺していた。
リザの笑顔も、言葉も、全てが彼女の予想の範疇を越えていたからである。
思い出すだけで、心臓が早鐘を打ち始めてしまう。
メイド長からあんな言葉を掛けられるなんて、考えられないことだからだ。
が、それは決して不快ではない。寧ろ、その逆だった。
証拠に、動揺しながらもじわじわと、暖かさが身の内に広がるのだ。
ここでなら、働ける。いや、彼女の下で働きたいと純粋に思う。
もしかしたらリザの大丈夫という言葉はただの慰めかもしれない。
気紛れであるかもしれない。
だが、そうであっても、やはり嬉しいことに代わりはなかった。
本当に大丈夫と、信じることが出来そうだった。
こんな気持ちになるのは、随分久しぶりのような気がする。
いや、前の屋敷を、離れてから初めてのことだろう。
彼の下を去ってから、きっと初めてのこと。
立ち止まってウィンリィは、少し息を吐いた。
廊下に面した窓から、微かに水音が聞こえてくる。
いつのまにか、雨が降り出したのだ。
静かに空から落ちる雨粒はしっとりと景色を濡らしていく。
この雨は都をも濡らしているのだろうか。
彼の人にも降り注いでいるのだろうか。
だが、それは彼女には分からなかった。
ウィンリィはゆっくりと頭を振ると、リネン室へと足を速める。
窓の向こう側で、雨は静かに降り注いでいた。
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