<独りの部屋>







扉を開くと、部屋は真っ暗な闇に包まれていた。
廊下から漏れる光を頼りに、備え付けのランプに火を灯す。
穏やかな優しい明かりは、辺りを仄暗い夕空色に染め上げていった。
開いていた扉を閉じると、ウィンリィは寝台へと腰を掛けた。
木材が軋む音が僅かに耳に聞こえてくる。
だがそれも一瞬のことで、部屋は直ぐに静寂を取り戻していった。
その静けさに少しだけ違和感を覚え、それから彼女は小さく息を吐いた。
どうも一人きりという空間に慣れない。
エルリックの家では、同僚と二人部屋であった。
いや、大概の屋敷で使用人は、例えばメイド長であるとか、執事であるとかの地位に無いかぎり二、三人が同室で暮らすというのが当たり前である。
しかし、この屋敷は使用人の数がそもそも少ないがために、部屋が余っているらしい。
だからメイドであろうと一人部屋が普通であるのだとメイド長は言っていた。
そんなことを思い出しながら、ウィンリィは、辺りを見渡す。
彼女に与えられた部屋は中々に広い。きっと本来は何人かで使うものだろう。
なんて贅沢なんだろう。そんなことを、なんとなく考えてみる。
だがその思考は長く続かなかった。


彼女は座った態勢からそのまま、体を寝台へとゆっくりと投げ出す。
襲ってきたのは疲労感だ。
今日は帝都の中心から、外れにあるここまでの長い距離を歩いてきている。
更にその後、メイド長から説明を受けながらいくらかの仕事をしていた。
そのうちのいくつかは、やったことが無いような慣れないものもあった。
だから、疲れるのも当然かもしれない。
でも、それは中々に心地よいものであった。体を動かすこと、働くことは嫌いじゃない。
それに働いている間は余計なことを考えないで済むからだ。





ウィンリィは目を閉じた。今日は本当に色々なことがあった。
だが、彼女はひとまずの安心感に包まれていた。
身を置く場所がこんなにも簡単に見つかってよかったと。
これも奥様から頂いた紹介状のお陰だと彼女は思った。
そして、それを渡してくれた時の、辛そうなトリシャの様子を思い出して、ひどく切ない気持ちになる。 奥様は何も悪くない、出来ればそう伝えたい。
かの主人に対して、恨む気持ちは毛頭無かった。
普通ならば紹介状など貰える立場ではないのに、それでも与えてくれた彼女にどうしてそんな感情を覚えるだろうか。 寧ろ、感謝の気持ちは深まるばかりだ。
また同時に、深い罪悪感を覚える。大きすぎる恩に背いたということ。
出来れば、謝りたかった。償えるのならば、そうしたかった。
だが、それは出来ないことなのだ。
もはや彼女に会うことは許されるはずもない、決して。
それはあの、若い主人に対しても同じことだ。
彼とも、きっとこのまま二度と会うことは無いのだろう。




そこまで考えて、ウィンリィは閉じていた目を開けた。
古ぼけた天井が視界に飛び込んでくる。
それが少しだけ眩しくて、彼女は無意識に目を細めた。
そして、情けない気持ちになる。自らを叱責したくもなった。
何を今更考えているのかと。
ウィンリィは、腕を自らの顔に乗せた。俄かに、視界が黒く歪んでゆく。
しばらくの間そうしてから、彼女は勢い良く起き上がった。
そして、鞄から様々な私物を取出し始める。
明日は早い。だから早く睡眠を取る必要があった。
新しい屋敷での、新しい生活が明日から始まるのだ。
覚えなければならないことは多く、また一日でも早く仕事に慣れる必要もある。
雇ってもらえたとはいえ、仮採用だ。
もし仕事が出来なければ、一ヵ月後には出ていかなければならない。
そうならないためにも、努力をしなければいけないのだ。
そのためにはまず、こうして起きているよりも、明日に備えてさっさと眠った方がいい。
それに、そうしなければ、また色々な思考の海へと溺れてしまいそうな気がする。
ウィンリィは黙々と就寝の支度をしていく。
とにかく明日からの仕事を、頑張ろうと思う。
そんな彼女の表情は、何か悲壮めいたものがあった。
古いランプはその横顔を、ぼんやりと暗く照らしている。











所々がランプで照らされただけの、薄明るい廊下をリザは歩いていた。
年若いメイドならば恐怖を感じるかもしれない時間であったが、彼女にそのような様子はみられない。 殆ど表情を変えることもなく、足を運んでいた。
その手には、強い酒とグラスを乗せた銀のトレイがある。
やがて、大きな扉の前で立ち止まると、彼女はまた無表情のまま扉を叩いた。



「旦那様、私です。よろしいでしょうか」



凛とした声が廊下に響いた。ややあって、入室の許可が下りる。
失礼します、とリザが部屋に入った時、主人はソファーの一脚に体を預けていた。
つまらなそうに、手袋を外している。
既に脱いだ上着とタイは、向かいのソファーの背の部分に適当に置かれていた。
なんとも気だるいその様子を認めてから、彼女は頭を下げた。
そして、主人の目前にある低い机で、酒を少しグラスに注ぐ。
それを水で薄めてから、差し出して口を開いた。



「お疲れさまです。どうでしたか、今日は」



その問いに、手袋を目の前の机に投げ出してから、主人は口を開いた。



「相変わらずだよ」



ふう、と息を吐いて、彼はグラスを手に取った。



「相変わらず、最悪だ」



そして、ゆっくりと酒を口にする。
その後で、やや自嘲めいた、しかし軽蔑も混じったように彼は笑った。



「お上品な貴族様方は、卑しい成り上がり風情が、あのような場にいることが余程、
お気に召さないと見える」



その様子を見て、聡明たるメイド長は何事かを悟った。
僅か一代で財を成し、上流階級への扉を開いた彼女の主人は、古くからの貴族連中にとってみれば気に食わない存在なのだろう。
夜会に出るたび、陰湿な扱いを受ける彼の苦労は相当なものであった。
きっと今日も何か不愉快なことがあったのだろう。
しかしこの国で商売を大きくするためには、夜会に出て顔を売り、縁を作る必要がある。
商いが大きくなればなるほど、その存在を無視することは出来ないのだ。
だからこそ、彼は連日のように夜会や晩餐会、舞踏会へと足を運んでいる。
何を言われようとされようとも、彼の将来にとってそれは必要なことであった。
幸いなことに、貴族連中の戯言に傷つくような弱い精神など持ち合わせていない。
また成り上がりには成り上がりなりの矜持があった。
だが、苦労を好む人間などいないだろう。
彼とて夜会の後は気分が重くなるのが常であった。
自身で選んだ道だ。だから弱音も泣き言も言わない。
だが、せめて酒でも飲まなければ、やっていられないというのが本音だった。
そんな主人を理解しているため、リザはそれ以上何も言わなかった。
ただ、酒を飲む彼を無表情のまま見ているだけだ。
しばらくして、グラスを空けた主人は、思い出したように彼女に向き直って告げた。



「そういえば。私が留守の間、何か変わったことはあったか?」



言外にまあ何もないだろうという意味を込めた言葉だ。
彼女は少し考えを巡らせた後、答えた。



「……何か、というわけではないですが。新しいメイドを一人、雇いました」

「メイド?」

「はい。メイドです」

「そういえば、人手が足りないとか言っていたな……で。どうなんだ?」

「どう、と仰いますと」



遠慮なく聞き返された言葉。
それに主人はわざと神妙な顔を作って、そしてこれまた真面目な声色で言った。



「美人か?」



だが、それに対しての答えは呆れが混じった冷たい視線だった。
いっそ恐怖すら覚える目線に、主人は冗談だと肩を竦めてみせる。
そして、空になったグラスを彼女に手渡してから。
今度は本当に真面目な顔をして、口を開く。



「……使えそうか?」



その言葉に、リザはグラスに酒を注ぐ手を止めて主人を見た。



「……ええ、一応は」



少し仕事をさせてみたが、とりあえず問題は無かったと彼女は答える。
しかしその歯切れの悪い様子に、主人は眉を潜めてみせた。



「なんだ。ひっかかる言い方だな」



君らしくもないと続いた言葉に、酒をグラスに注ぎながらリザは考えた。
あの娘に感じた疑問を、果たしてこの主人に言うべきなのかと。
大した問題ではないと自身でも結論付けたことをわざわざ言う必要があるのかと。
しかし疑問は、確かに疑問だった。それに代わりはない。



「………そのメイド。何か、あるのか?」



何も言わない彼女に、主人は静かに問う。
見ると、その顔は実に神妙なものであった。
こちらを真直ぐに捉える黒い瞳は、彼女に答えることを迫っている。
これは言わなければ許されないだろう。
とうとうリザは観念して、酒を満たしたグラスをまたかの人に手渡した後。
大したことではないのですがと前置きをして、言葉を続けていった。

























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