|
<悩める女>
広陵とした大地に、淡い日光が降り注いでいる。
薄青の空にはキルト綿の如き雲が隙間無く浮かんでいた。
吹き荒ぶ風は強く、僅かに草の香と高い笛の音を運んでいる。
牧童が犬を呼ぶものだろうか。それとも、農民が牛馬を追うものだろうか。
何れにしろ、穏やかな春の光景である。
これを都のそれであると言って信じるものは少ないだろう。
しかしここは、外れとはいえ確かにアメストリスの帝都である。
この時代、人や物が溢れているのは大都市の、それも中心部の一角だけであった。
そのため一国の都とはいえ中心部から数時間も歩けば、このように中世の時分から変わらないなんとも閑かな風景が広がっているものである。
喧騒からは程遠く時代を象徴する産業や文化、技術を目にすることは殆ど無かった。
時折見える都を出た、或いは向う汽車の汽笛と白煙だけが昔との相違をやっと示すだけである。
しかし、それでも。
この土地にも時代の流れというものは確かに、しっかりと押し寄せていた。
周囲一帯を見渡せる丘。そこにその屋敷はあった。
もともとはどこぞの貴族の別荘だったそれは、権威の象徴としては十分にその役目を務める程の代物だ。
古き時の贅を極めて作られたと思われる外壁も、屋根もまだ美しい姿を保っている。
しかし、そこに貴族の姿を見ることはもはや無い。
時代は、権威や血筋だけで豪華な暮らしを保障することを困難にしていたのである。
金に苦心した彼らは先祖代々の土地、または屋敷や別荘をどんどんと手放していった。
しかしその後、時を置かずしてこれらの屋敷を買い取る者が現れ始める。
それは皮肉なことに、貴族を追い詰める原因となった者であった。
新たに富める者、つまり新興地主―――――成り上がり、と蔑まれた存在である。
この屋敷も例にならい、今の主は若くしてたった一代で財を築いた男であった。
屋敷の中の一室。小綺麗な部屋の中で、彼女は大きく息を吐いた。
纏め上げた濃い金色の髪は艶やかに美しく、書類を睨むその薄茶の瞳は鋭いものだ。
かといってそれは彼女の外見を損ねるものではない。
逆に、氷のような鮮麗で涼しい美を見るものに覚えさせるだろう。
容易い気持ちで触れてしまったら手痛い仕打ちを受けるような、触れることは何人にも許されないような、そんな完璧な美しさ。
もし上流の衣裳を身に纏ったのなら、例え社交界に存在したとしても誰一人としてその正体を疑う事無いだろう。
しかし、現実に彼女が身を包むのは華やかなドレスでは無かった。
黒いコットンのワンピースに、ふわりとした純白のエプロン。
頭には同じく真っ白なヘアドレスのリボンが揺れていた。
一般的なハウスメイドのそれである。
それもそのはず、彼女はハウスメイドであった。だがただの使用人ではない。
若くしてこの屋敷のハウスメイド長を任せられた身であった。
別の屋敷で働いていた所を、今の主人に引き抜かれてもう数年になるだろうか。
買い取ったばかりの古い屋敷をまず人が住める状態にすることから始まって。
それから今に至るまで。
終始彼女はこの屋敷の環境を良くすることに努めてきた。
少しでも、美しく。少しでも居心地が良いように。
その理由としては、自らの能力を高く評価してくれた主人への忠誠心と、感謝の念があった。
国を、時代を変えてやると言う彼の人の力になれるように。
彼女自身、生まれた世や階級を恨んだことが無いといったら嘘になる。
それなりの苦労はしてきたからだ。
そんな世界を引っ繰り返す、というのは中々に小気味いいことではないか。
そして、もう一つ。それは単純に矜持の問題だった。
大役を任せられたことに対する責任と、自分なら必ず出来るという自信。
もしも不手際があったのならば、出来ないと投げ出すことがあったのならば。
彼女は自分自身を許すことが出来ないだろう。
しかし、そのようなことは今まで無い。そしてこれからもきっと、ありえない。
それが彼女の力の証明であり、また努力と砕心の結果そのものであった。
そう、彼女は努力をしてきた。出来ること全てをしてきたのである。
だが、それだけではどうにもならない問題もあるのだ。
ふぅ、と彼女はまた息を吐く。手にした書類から目を背けると頭を抱えた。
やはり、足りない。到った結論は、いつも同じであった。
何が彼女をそこまで悩ませるのか。それはもちろん職務についてのことだ。
足りない、とは職務、つまり屋敷の維持と管理をするために必要な物。
それが足りないということである。
金ではない。金で解決出来るのならばとっくにそうしている。
ならば何か。ずばり、人手だ。
この屋敷は主人が買い取って以来、慢性的に使用人が不足しているのである。
この屋敷の規模を考えると、ハウスメイドはもう五、六人。フットマンならもう三人は最低欲しいところだ。
しかし、人手といっても、どんな者でもいいかと言われたらまた違う。
役に立たない人間が増えたところで、こちらの手間が増えるだけだ。
質を量で誤魔化すことは、したくはなかった。
それは彼女の意志にも、そしてなにより主人の意向にも逆らうことになるからである。
欲しいのは、経験者だ。そしてそれが優秀ならば、なお良い。
だが、現実としてそんな都合の良い人間が転がっていることは稀である。
実際、人手はこの数年まったく増えていないのだ。
新聞に使用人募集の広告は出してみたりしたものの、結果は良いとは言えない。
帝都の外れということでそもそもの希望者が少ない上に、稀に訪れる人間は大概が彼女や主人の意向に合いはしなかったからだ。
しかしそれでも、今まではどうにかやってこれた。
使用人一人一人が二人分、或いは三人分の仕事をすることで足りない人手を補い、乗り越えてきたのだ。
だが、最近。主人の事業が大きくなるにつれて、彼の社交の機会が増えていくにつれて。
とうとうそれも厳しくなってきたのである。この屋敷で行う晩餐会も数が増えた。
それに伴って、招く客の数も増えた。そこに、限界が訪れたのだ。
人手の補給はもはや無視できない重大な問題になっていた。
彼女がこうして事務的な仕事をしている時間すら惜しい程に。
彼女は、また表情を険しくする。
もう時間が無い。そろそろ屋敷全体の様子を見回らなければならない刻限だった。
書類を置いて立ち上がる。スカートの皴を伸ばすようにパン、と一度だけ叩く。
そして、またため息を吐きたい気持ちを押し殺して部屋を後にした。
本当に、どこかに優秀な使用人がいないものだろうか。
「……ここ、でいいのよね?」
目の前にそびえ立つ屋敷と、その門を見上げながら、ウィンリィはぽつりと呟いた。
その手には私物を詰めた鞄と、今日の日付の新聞がある。
彼女はそこに印刷された住所をもう一度確認する。
使用人募集、と銘打たれたお屋敷の住所は確かにこの場を示していた。
間違いない。ここが、目的地なのであろう。
視線を再び上げるとウィンリィは目をはためかせた。
「おっきい……」
思わず漏れた言葉は感嘆めいたそれであった。
郊外のお屋敷ということでそれなりの大きさを予想はしていたのだが。
まさかここまでとは思わなかったからだ。
もしかしたら大きさだけならエルリックの家と同じくらいの規模かもしれない。
しばしそのまま、口をぽかんと開けていた彼女であったが、はっとしてそれを正した。
誰が見ているというわけでも無いのだが。
それでも気の抜けた顔をしていた自分がなんだか恥ずかしい。
僅かに赤くなった顔を誤魔化すように下を向く。
その後、思い立ったようにきょろきょろと視線を巡らせた。
しかし、肝心のお屋敷に人の気配は無い。
傾きかけてはいるが、まだ太陽は高い位置にいる。
エルリックの家なら、使用人があちこちと忙しそうに駆け回っている時間だ。
だが、ここにそのような雰囲気は無かった。とても、静かだ。
どうしよう。彼女は、頭を抱える。
門番がいるのなら用件を伝えることが出来るのだが。
いない、ということは勝手に入っていいのだろうか。
しかしそれは余りに失礼にあたる。
かといってこのままここで待っていても埒があかない。
せめて裏口、勝手口があれば話は別なのだが。
この大きなお屋敷にそのようなもの存在するのだろうか。
さて、本当にどうしたらよいのだろう。恐る恐る彼女は、門に近づいてみる。
鉄格子が閉まることもなく開けっ放しのそこは、逆に不安を誘った。
しかし。
こくり、ウィンリィは息を飲む。
そして思い切ったように一歩足を踏み出そうとした、その時であった。
「何してんだ、おじょーさん?」
「うわぁぁああ!?」
「お、おおう?」
驚いて、思わずウィンリィは大きな声を上げた。
それから、恐々と声のした方を見る。すると、声の主と思われる金髪の青年と目が合った。
使用人らしき黒いスーツに身を包んだ長身の彼は、彼女の上げた声に逆に驚いたらしくその空色の瞳を見開いていた。
何故か無償に大変なことをした心持ちになって、ウィンリィは頭の中が真っ白になる。
口を何度かぱくぱくとさせた後。
はっとして、どうにか自分が怪しい人間ではないことを証明しようと試みた。
「ご、ごめんなさい!で、でもあのっ。あたし…!
あと、えーっと、あ、怪しい人間じゃなくて。
その、あの、し、新聞!新聞見て、そのっ」
しかし焦りからか、その言葉はなんともたどたどしいものになってしまった。
勢いはあるのだが、うまく来訪の理由を告げられてはいない。
呆然としたままの青年の様子に、ウィンリィは、ますます慌てた。
「あの、ですからっ。あたしは、その。
…そう!こ、ここで、働きたいというか、あの……その……」
ちらり、彼女は伺うように目の前の青年を見上げる。
反応が無いのが怖かったからだ。すると、先程まで呆然としていた彼と目が合った。
「……あーっと」
「は、はいっ」
「君は、つまり」
「はい」
「ウチでのメイド希望、っつーことで、OK?」
逆に確かめるような口調で。
首を傾げながらゆったりと言われた内容にウィンリィは少々面を食らった。
しかし直ぐに我に返る。
「は、はい!そうですっ!」
そうなんです、と大きな声で告げる彼女に、青年はまた少し圧倒されるような様子を見せた。
だが、直ぐにそれを正すと、にっこりと人好きのする笑顔を浮かべた。
しかしまるで何かを含んでいるような、そんな顔にも見える。
「よっし!」
「……え?」
「じゃーあこっちだ。そんなとこでつっ立ってないで、ついてきな」
言うと同時に、彼はくるりとウィンリィに背を向けた。
そしてそのまま、屋敷の方へと足を運ぶ。驚いたウィンリィは、しばしその場に固まる。
あまりにあっけらかんとした青年の様子に動揺した、というのが正しい。
だが、その間にも青年はどんどんと歩いていってしまう。
「え、あの、その」
「何してんだー?」
「あ、ちょっ……」
「ほら、早くしろって。おいてくぞー?」
「えっ!?あ、は、はいっ!」
反射的に返事を一つ。
それからウィンリィは急いで立ち止まって彼女を呼ぶ青年の方へと駆け出した。
なんだかよく意味がわからないが、とりあえずここは彼について行くのが正しいのだろう。
安心とは言えないが、彼女は思わず息を吐く。
しかし沸き上がってくるこれからへの不安は消えはしない。
大丈夫だろうか。ここで雇ってもらえるのだろうか。
それを誤魔化すように彼女は、手にしたままの新聞を握り締める。
かさり、という音は穏やかな風に踊り、しかし直ぐに辺りに霧散していった。
BACK NEXT
|