|
<それは、まるで、夢のような>
ふと部屋の置時計に目をやると、針は十時と少し前を指していた。
いつのまにこんな時間になったんだろう。図書室から本を持ってくるといつもこうだ。
読み進めるうちに時間があっと言う間に過ぎていってしまう。
家で読書するのは久しぶりだったから特にそう感じたのだろう。
寄宿学校の図書室も多くの本に溢れているけど、それとは別だ。
うちの本、とりわけ父親が自ら選んで、購入した本は、悔しいことに面白い。
それが、家を留守にしている間に数が随分増えているもんだから。
だから余計に夢中になってしまった。
まあ、どのみち、数ヶ月ぶりに帰宅したその日に、やることではないが。
オレは長椅子に預けていた体を起こした。
本を膝の上に置いたまま、大きく背伸びをする。
さすがに、少し疲れた。ついでに、小腹も減ったらしい。
情けない音が自分の腹の辺りから聞こえてくる。
どうするか少し迷ったが、結局立ち上がって、室内電話に手を伸ばした。
軽食と、あと暖かいものが飲みたかったので紅茶を頼むと、電話口から若いハウスメイドの声で了承の意が伝えられる。
それを確認して、オレはふらふらと長椅子に戻った。
行儀が悪いことは分かっていたけど、クッションを枕代わりに横になる。
眠くは無かった。でも目を瞑って夜食が届くのを待つことにした。
もう本を読む気にはならなかったし、動いたら余計に腹が減りそうだったからだ。
とんとんと、扉を叩く音が部屋に響いたのは、それからしばらくしてからだった。
別に遅かったとか、そんなわけじゃないが、反射的にその方向を睨んでしまう。
まったく空腹ってのは厄介なものだ。気が立っている。
オレは少し投げ遣りな口調で、来訪の意を訊ねる。
しかし、返ってきたその声に、オレは盛大に狼狽する羽目になってしまった。
「お茶を、お持ちいたしました」
いかにもハウスメイドらしく淡々と告げられた内容は、別に驚くものではない。
だが、オレは反射的に勢い良く体を起こしてしまう。
はっとして、扉の方を見た。それから、固まった。
聞くこと自体久しぶりだった。
前に家に帰ってきた時以来だから、結構前だ。
それでも、この声を忘れるわけがない。
だが、彼女がやってくる可能性をすっかり失念していたことは事実だった。
嘘だろ、おい。なんでいきなり。
言った所で事態が変わるわけはないが、口をついたのはそんな言葉だ。
会えるのは単純に嬉しい。
嬉しいが、だけどもう少し心の準備が出来てからの方が良かった。
例えば、彼女自身を呼び出したりとか。
実際はそんなこと、めったにありえないが。
「エドワード様?」
しかし、そうやってどれ程動揺しても。
どれだけ現実逃避をしてみても。
扉の向こうからまた聞こえてくる不審そうな声は、確かに現実だった。
オレは我に返って、咳払いをして無理にでも心を落ち着かせる。
覚悟を決めると、入室の許可を出した。
心臓はそれでも煩かったが、こんなに早くに再会出来るのは幸運だと思い直すことにして。
失礼しますと姿を見せた彼女は、ウィンリィは。
オレの記憶の中のそれと多分、殆ど変わらなかった。
長い黒のワンピースも、真っ白なレースのエプロンも、最後に見た時と同じだ。
そもそも数か月程度で変わるもんでも無いだろう。
それに安心したような、でもどこか少し、がっかりしたような気分になった。
でも逆に随分、冷静さは戻ったらしい。
茶器だのサンドイッチだのが乗せられたワゴンを慎重に押しながら。
ゆっくり近づいてくるその姿を、目で追う。
とは言っても、すぐ傍まで。
手を伸ばせば簡単に触れられる距離まで近寄られると、さすがに少し緊張してしまった。
しかも、そんな時に限って目線が合ってしまう。
「お久しぶりです」
そしてにっこりと笑顔を向けられてしまうものだから。
オレはまた動揺してしまった。
「お、おう。………久しぶり」
それを誤魔化すために、取り敢えず返事をした。
有り難いことに、オレの様子を別段変にも思わなかったらしく。
彼女はまた笑って紅茶の準備をし始める。
かちゃかちゃと小さな音を立てて、カップやソーサーを机の上に並べていく。
することも無いので、その様子を眺めることにした。
陶器や銀のスプーンを見つめる青い瞳や、真摯な表情、まとめられた長い薄金色。
それらをこうして近くに感じるのは久しぶりだった。
懐かしさを覚えるくらい長い間では無い。
でもそれによく似た、不思議な安堵を感じてしまう。
ああ、帰ってきたんだなあと実感する、と言えば良いか。
どちらにせよ、穏やかな感情だった。
「なあ」
声をかけたのは、彼女が手を止めた時。
ちょうどティーポットに湯が満たされた直後だった。
「はい。何か?」
「………敬語」
なんだか恥ずかしくて、先程から気になっていたことを小さな声で言う。
きょとんとした顔が向けられて、余計に恥ずかしさを覚えた。
でも大事な問題なので、込み上げる羞恥心には無視を決め込んでまた繰り返した。
「や、だから、敬語。誰もいないだろ」
「あっ。………いや、でも」
「違うか?」
「ち、違わないですけど。でも」
「なら、普通に話せよ。………いつもそう言ってるだろ」
諭すようにゆっくりと言う。すると観念したらしい。
納得はしてないみたいだったが、それでも諦めたのが分かった。
俯いた顔のまま、彼女は小さくため息を吐いた。
「…………。分かった、わよ」
やっと告げるその声も小さなもので、なんだが妙な罪悪感を覚えた。
でも、これは譲れない問題だった。
周りに誰もいない時は、敬語は使わない。
それは子供の頃に約束したことだった。
だけど、最近はオレがこうやって無理に指示しない限り、彼女が普通に話すことはない。
よく分かってはいるのだ。昔と今は違うことを。
自分達は、使用人と主人の関係にあることを。
いつまでも子供のままの関係じゃいられないと言うことも。
だけど、それが簡単に割り切れるかというと、そうではない。
少なくとも、オレはそうだった。
彼女より子供だと言われても、それでも、そうだった。
小さい頃の約束だから、ってそんな理由だけじゃなくて。
それは、否定したってしきれない感情の問題だ。
彼女には何の関係もない、オレ個人の問題だった。
だけど、そう理解っていても。それでも。
普通に話してほしかった。当たり前のように接して欲しかった。
それが例え無理強いであっても、我儘とも分かっていても。
せめてあと少しの間。
オレが、この勝手な感情に決着を付ける、いつかまで。
その時まで、そうして欲しかった。
でも、その時は。その、いつかは。
本当に来るのだろうか。
「あの、さ」
俯いたままの彼女に呼び掛ける。
するとゆっくりと、顔をあげてこちらを見た。
「その、紅茶。も、もう大丈夫じゃね?」
何かをとり繕うように、とり繕うためにオレは言った。
実際、湯を入れてから程よい時間が経っているから間違いではない。
「………そう、ね。そろそろ、いい頃かな」
そう言って、ようやく彼女は笑顔を見せた。
そしてまた手際よく、手を動かし始める。
オレは、心の中で息を吐いた。
笑ったその顔が、記憶の中にいつものそれと同じだったことに心底、安堵したからだ。
別に変化が怖いわけでは、ない。
でも、それに直面したとき、自分がどうなるのかが分からない。
変わりたくない訳では、ない。
でも、そうなった時、今まで大切にしていたものが壊れそうで、踏み出せない。
いつまでこの関係が続くのか、とか。
いつまでこの関係を続けることが出来るのか、とか。
いつまでこの関係を続けなければならないのか、とか。
そんなことを考えると、やっぱりこのままが一番いいのかもしれないと思ってしまう。
何を失うことも壊してしまうこともない。
穏やかで、居心地がよくて、暖かくて。
だけど、新しく何かを得ることはない、夢のような、現実。
それでオレは本当に満足なのだろうか。
考えは、いつも其処で止まってしまう。
濃い琥珀色の液体が注がれると、暖かい湯気と香が辺りに広がった。
ミルクピッチャーとシュガーポットがまず目の前に出され、その後でソーサーに乗せて、カップが差し出される。
「……はい。熱いから気を付けて」
「ん。悪い」
気遣いの言葉と一緒に差し出された受け取って、少し口にする。
空っぽの胃にじんわりと熱いものが広がった。
それで空腹だったことを思い出す。
近くにあったサンドイッチに手を伸ばして、二口くらいでそれを平らげた。
それから紅茶を口にする。
物足りなくて、まだまだ沢山あるサンドイッチの皿に手を伸ばす。
苦笑したような笑い声が聞こえたのは、その時だ。
何事かと思って見ると、近くに立って控えていた幼なじみのハウスメイドが呆れたように笑っている。
「そんなに急いで食べなくてもいいじゃない」
「……腹減ってんだよ」
「うん。見てたら分かる」
「じゃあ言うなよ」
「誰だってこれ見たら、言いたくなるわ」
「なんだ、それ」
「その通りの意味よ。もっと落ち着いて食べたらって言ってんの」
「……ますます意味わかんねーよ。ってかさ」
サンドイッチを飲み込んでから、大げさにため息を吐いた。
そして睨むように彼女を見上げる。
「んなとこでつっ立っていられたら、落ち着いて食えるもんも食えねーよ。
なんか、急かされてるっつーか、そんな感じで」
嘘は言っていない。
でも、普段は気にもならないことがひどく気になったのが、自分でも意外だった。
立っていたのが彼女だったから?
だけどそう考えることはオレにとって今は禁句だった。
そうかしらと首を傾げる彼女を視界に捉えて、オレはまた息を吐いた。
「そーだっつの」
「じゃあ、どこにいたらいいのよ」
「それは…………」
それを言われると確かにそうで、オレは言葉につまった。
売り言葉に買い言葉でつい言ってしまったものに具体的な解決法はない。
さてどうしたものかと考えて、オレは、はたとあることを思い付いた。
「あー……アレだ。その辺りにでも座っとけ」
自分から見て丁度、向い側にあるソファーを指差してそう言う。
「へっ?」
間の抜けた声が声が聞こえてきた。
でも。それには無視を決め込む。
自分でも、変な事を言っているのは分かっていた。
でも、思いついた時、最高の考えだと思ってしまう自分が、確かにいたのだ。
無意識で、ふと思い付いたそれは、一つの答えだ。
色々なことに目を瞑って、気づかない振りをして。
そんな時しか見えてこない答え。
本音、といったら分かりやすいのかもしれない。
「つーか、コレ。一人で食うのも味気ないよな。
あ、そだ。お前、これで仕事終わりだろ?」
「えっ。あ、あぁ、まぁ、うん。そうだけど」
「じゃあさ、食ってけよ」
「はぁっ?」
今度は頭に疑問符でも浮いてそうな声だった。
なんだろう、この大胆さは。
段々、自分でも可笑しくなってくる。
「ほら、早く座れって」
「ちょ、な、何言ってんのよ。そんなこと、出来るわけな」
「大丈夫だって。バレなきゃ良いんだよ、バレなきゃ。
あ、カップも予備のを持ってきてるだろ?じゃあ紅茶も飲めるな」
「ちょ、エドっ。だから、無理」
「いいから座っとけ。
…………一人で食っても、うまくないんだよ」
今まで手にしていたカップを置いて、真っすぐに彼女を見た。
最終宣告だった。それは本心ではあるけれど、そうじゃない。
いわば建て前だ。真意は別のところにある。
でも彼女は変な所で正直だから、きっと言葉の通り受け取ってくれるだろう。
証拠に、考えていた様子を見せたが、すぐに諦めたようだ。
はぁとため息を吐くと、呆れたように言った。
「まったくもう……。
どうしてこう、言いだしたら聞かないのかしら、うちの坊ちゃんは」
「今更だろ。ってか、坊ちゃん言うな!」
「あぁ、もう、しょーがないわね……。
……………ホントに、今回だけ、だからね」
「最初からそうしろっての。ほれ、さっさと座れって」
得意げに笑ってみせると、彼女は渋々ながらも席に着いた。
なんだかんだいって、こいつはオレに甘い。
あんな風に頼まれて、断れるわけが無かった。
それが分かっていて、そう仕向けるオレ。
甘えているだけだ。
そんなこと分かっている。
勝手だと言われてしまえば返す言葉もない。
「………ホント、だせーよな」
「エド?」
思わず小さく呟いた言葉は、有り難いことに届かなかったようだ。
不思議そうに見てくる彼女に、わざとらしい笑顔を返す。
それからカップに残った紅茶を飲み干した。
「なんでもねーよ。それよりさ、もう一杯、いれてくんね?」
カップを差し出すと、また彼女は呆れたように笑ってみせた。
それから、少し待っててと準備を始める。
オレが差し出したカップと、自分用に新しく出したカップ。
その二つを並べて、順に新しい紅茶を注いでいった。
今度は自分でそれを手にする。
彼女は、もう片方のカップにミルクをたっぷりと注いでいた。
よくあんなものが飲めるななどと思いながら、自分のそれに口をつける。
だが、熱々からは少し冷めてしまったそれは、渋みが少し強く感じる。
砂糖でも入れるかと、手を伸ばした。
そこでオレは、シュガーポットではありえない感触に、目を少し見開いた。
「あっ?」
「あっ!」
そんな声を出したのは、殆ど同時だった。
その後、シュガーポットに向かってそれぞれ伸ばしていた手を、勢い良く引っ込めたのも。
大体、同じタイミングだった。
「わ、悪いっ!」
「べ、………別にっ」
咄嗟に謝る。すると間髪入れずに、声が返ってきた。
恐る恐るその顔を伺って見ると、赤かった。
それを疑問に感じないと言ったら嘘になる。
妙な期待が浮かんできそうになる。
でも、それよりも自分のことで一杯で、オレは視線を外した。
手にした紅茶の水面を凝視する。
恥ずかしくて見ていられなかったからだ。
それは向こうも同じことだったらしい。
固まったまま、動こうとしない。
短い時間だったが、色々な感情が、ぐるぐるとオレの中で回っていく。
置時計の音と、自分の心臓の音だけが妙に、煩い。
それ以外、何も聞こえなかった。
でも、それから不意に訪れた沈黙。
それは時間が経てば経つほど堪え難くなって。
二人が二人とも黙っているのが、なんだかどうしようもなく可笑しくなってきて。
変に気持ちが高揚していたのかもしれない。
でも、なんだかあれこれ考えるのが全部無駄に思えてきて。
考えたって、どうなるもんでもなくて。
オレは、とうとう吹き出した。
すると、緊張が切れたらしく、彼女も同じように笑いだした。
ほんの数分前は恥ずかしくてたまらなかったのに、今は可笑しくて仕方がない。
照れ隠しもあったと思う。誤魔化したかった所もある。
でも理由はどうであれ、笑いはこみ上げてきて仕方が無かった。
声に出して、くすくすと笑い合う。
ひとしきり笑った後だ。
口元を押さえながら、彼女が言った。
「ねぇ。何で、笑ってんの?」
「知らねーよ」
まあどうでもいいだろと笑いながら言うと、それはそうだと返ってくる。
本当に、どうでもよかった。
今はただ、この穏やかな時間が少しでも長く続けばいいと思う。
いつか向き合わなければいけない現実が訪れるまで、せめてその時まで。
全ての疑問と感情に決着をつけなくてはいけない、その日まで。
この、夢みたいな時間を大切にしたかった。
本当に、心から、そう思った。
連載『君という名の光』が始まる三、四年前の話。二人が14〜5歳くらいの設定です。
密かにエド→(←ウィン)みたいな感じで。
最後の王道シチュを書くためだけのモノ。しかし中々そこに到達しなくて泣きたくなりました。
奇妙に悲恋臭いのは、あの連載につながる話だからでしょうか(遠い目)
しかし。
これから約四年の間に、いったいどうやって両思いになったのかは、
甚 だ し く 謎 ですね!(いっそ爽やかな笑顔)(おい)
サイト二周年記念ですー。
|