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<いつもの朝>
まだ鳥も眠る早朝。どんよりとした雲は厚く、朝靄が街全体を包んでいる。
昼間は行き交う人々と馬車で溢れるそこは今、実に静寂たるものだった。
朝が静かなのはいつだって変わらない。
そう、時代が、世界が進んでも変化することはありえないのだ。
今は世紀の終わり。産業革命からなる変化と革新、そして調和と混沌の時代。
それは古い生活習慣と階級制度がまだ色濃く、根強く社会を支配する時代であった。
古くから続く帝国の首都。
まるで時が流れていないようなその町にだんだんと光が差し込んでくる。
しかしここに朝の到来を告げるのは朝日などではない。
街の中心にそびえ立つ聖堂の、空間を包み込むような荘厳たる鐘楼の音。
それこそが一日の始まりの象徴だ。今日も街全体に響き渡る。
それは、大通りに面したとある住宅地。貴族の邸宅が立ち並ぶ一角にも届いていた。
その中で一際広大な家。その主たる一族は、国を支える一翼として、今もむかしも政治的、経済的に国を支える大富豪である。まさに貴族中の貴族。名門中の名門であった。
さて、その邸宅の中の一室。
使用人二人に対し一部屋ずつあてがわれる簡素な部屋。
小さな窓があるそこに置かれた小さな寝台。
それに体を横たえていた少女は、微かに聞こえる鐘の音に目を覚ました。
しばらくそのままの体勢で呆然としていたが、直に意識を覚醒させる。
身を起こして、まだ薄暗い部屋をぐるりと見回した。
隣の寝台に眠る同僚の娘はまだ夢の世界に居るようだ。
まだ起床時間まで時間があるから、当然だろう。
しかし、彼の娘はもう一度睡眠を味わう気にはならなかった。
だからそろりと冷たい床に足を下ろす。
せっかく早く起きたのだ、ならば先に身仕度をしてしまおう。
そう考えて、彼女はばさりと寝巻を脱ぎ捨てた。
まず彼女が行うのは、薄手の下着を身につけることだ。
ふくらはぎまで覆うドロワーズと、スカートの広がりをもたせるためのペティコート。
上流階級の女性ともなれば、それはレースやフリル、刺繍で飾られた華美なものになる。
が、彼女のそれは控えめなレースのみがついた実にシンプルなものだった。
ふわりと手早くそれを身に纏うと、今度はコルセットをつけた。
きちり、ぎゅっ、と紐を絞めて固定すると、彼女の細い腰は一際美しいラインを描く。
寝台に腰を下ろし、そして黒いウールのワンピースを頭から被る。
するりと両腕を通して、前の釦を一つ一つ丁寧に止めてゆく。
全ての釦を止めた後、彼女は立ち上がって、確かめるように長いスカートをパン、と叩いた。
華やかにフリルがあしらわれた、真白いエプロンをその上につける。
そして、背中で交差させたそれの紐を結ぶ。
首元と、両手首に付けるのはまた同種の色彩を持つカフスだ。
自らの長い薄金色の髪をしなやかに高い位置でまとめあげた後。
その上に愛らしいヘアドレスをちょこんと乗せる。
これらは皆、今だに薄暗い部屋、その壁に取り付けられた小さな鏡に向かいながらの作業。
しかし彼女の手は淀みなく動く。
口にピンを銜えて、そのフリルと長いリボンの付いたヘアドレスの位置を調整する。
相応しい所で、それをピンで固定する。
ひらりとリボンが揺らめいた。
これで一通りの身仕度は完了となる。
不備が無いか確かめるように、彼女は鏡に映る自身を見た。
そこにいたのは、ハウスメイドとして要求されるに相応しい姿。
国の中でも有数の貴族、エルリック家の邸宅に仕えるに十分すぎる、姿。
じっと、彼女は鏡の中の自分を見つめ続ける。
そして、頭をことりと鏡に預けた。
それから、空色の瞳を閉じる。
(―――待ってろ)
頭に蘇ったのは、昨日の夜の光景。
お互いの存在を確かに認めることが出来る距離で耳に響いた、言葉。
そして、暖かい温もり。
彼の言葉を、気持ちを信じていないわけではない。
どうして彼を疑うことがあろうか。
しかし、頭にはいつだって不安と恐怖の影が付きまとっている。
身のほど知らずな行為、感情だとわかっているから、尚更。
嗚呼。だけど、それでも。
「………あんなこと、言われたら………待たないわけには、いかないじゃない……」
ぽつりと、誰にも聞こえないように彼女は呟く。
間違っていると理解している。
こんな自分が、彼の結婚相手として相応しくないことくらい。
でも、彼の気持ちも、言葉も全てが嬉しかったから。
本当に、嬉しくて嬉しくてしょうがなかったから。
だから、信じるしかない。否、ただ信じたいのだ。
ふう、と一つため息を吐くと彼女、ウィンリィは瞳をゆっくりと開けた。
そして、さまざまに廻る感情を振り払うように顔を上げ、一度ふるりと振る。
それから、今だに眠る同室の同僚を起こすために寝台の方へと近づいてゆく。
もうすぐ、起床時間であった。
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